その七十七
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その七十七
抽斎歿後の第五年は文久三年である。
成善
(
しげよし
)
は七歳で、
始
(
はじめ
)
て矢の倉の
多紀安琢
(
たきあんたく
)
の
許
(
もと
)
に通って、『
素問
(
そもん
)
』の講義を聞いた。
伊沢柏軒はこの年五十四歳で歿した。徳川
家茂
(
いえもち
)
に
随
(
したが
)
って京都に上り、病を得て
客死
(
かくし
)
したのである。嗣子鉄三郎の
徳安
(
とくあん
)
がお玉が池の伊沢氏の主人となった。
この年七月二十日に
山崎美成
(
やまざきよししげ
)
が歿した。抽斎は美成と甚だ親しかったのではあるまい。しかし
二家
(
にか
)
書庫の蔵する所は、
互
(
たがい
)
に
出
(
い
)
だし借すことを
吝
(
おし
)
まなかったらしい。
頃日
(
このごろ
)
珍書刊行会が『
後昔物語
(
のちはむかしものがたり
)
』を刊したのを見るに、抽斎の
奥書
(
おくがき
)
がある。「右
喜三二
(
きさじ
)
随筆後昔物語一巻。
借好間堂蔵本
(
こうもんどうぞうほんをかり
)
。友人
平伯民為予謄写
(
へいはくみんよがためにとうしゃす
)
。
庚子孟冬
(
こうしもうとう
)
一校。抽斎。」
庚子
(
こうし
)
は天保十一年で、抽斎が弘前から江戸に帰った翌年である。
平伯民
(
へいはくみん
)
は平井東堂だそうである。
美成、字は
久卿
(
きゅうけい
)
、
北峰
(
ほくほう
)
、
好問堂
(
こうもんどう
)
等の号がある。通称は
新兵衛
(
しんべえ
)
、
後
(
のち
)
久作と改めた。
下谷
(
したや
)
二長町
(
にちょうまち
)
に薬店を開いていて、屋号を長崎屋といった。晩年には
飯田町
(
いいだまち
)
の
鍋島
(
なべしま
)
というものの邸内にいたそうである。
黐木坂下
(
もちのきざかした
)
に鍋島
穎之助
(
えいのすけ
)
という五千石の
寄合
(
よりあい
)
が住んでいたから、定めてその邸であろう。
美成の歿した時の
齢
(
よわい
)
を六十七歳とすると、抽斎より長ずること八歳であっただろう。しかし諸書の記載が
区々
(
まちまち
)
になっていて、
確
(
たしか
)
には定めがたい。
抽斎歿後の第六年は
元治
(
げんじ
)
元年である。森枳園が
躋寿館
(
せいじゅかん
)
の講師たるを以て、幕府の月俸を受けることになった。
第七年は慶応元年である。渋江氏では六月二十日に
翠暫
(
すいざん
)
が十一歳で
夭札
(
ようさつ
)
した。
比良野
貞固
(
さだかた
)
はこの年四月二十七日に妻かなの喪に
遭
(
あ
)
った。かなは文化十四年の
生
(
うまれ
)
で四十九歳になっていた。内に倹素を忍んで、
外
(
ほか
)
に声望を張ろうとする貞固が留守居の生活は、かなの内助を待って
始
(
はじめ
)
て保続せられたのである。かなの死後に、親戚僚属は
頻
(
しきり
)
に再び
娶
(
めと
)
らんことを勧めたが、貞固は「五十を
踰
(
こ
)
えた花壻になりたくない」といって、久しくこれに応ぜずにいた。
第八年は慶応二年である。海保漁村が九年
前
(
ぜん
)
に病に
罹
(
かか
)
り、この年八月その再発に
逢
(
あ
)
い、九月十八日に六十九歳で歿したので、十歳の成善は改めてその子
竹逕
(
ちくけい
)
の門人になった。しかしこれは殆ど名義のみの変更に過ぎなかった。
何故
(
なにゆえ
)
というに、晩年の漁村が
弟子
(
ていし
)
のために書を講じたのは、四九の日の午後のみで、その他授業は竹逕が
悉
(
ことごと
)
くこれに当っていたからである。漁村の書を講ずる声は
咳嗄
(
しわが
)
れているのに、竹逕は
音吐
(
おんと
)
晴朗で、しかも能弁であった。後年に至って島田篁村の如きも、講壇に立つときは、人をして竹逕の
口吻
(
こうふん
)
態度を学んでいはせぬかと疑わしめた。竹逕の養父に代って講説することは、
啻
(
ただ
)
に
伝経廬
(
でんけいろ
)
におけるのみではなかった。竹逕は
弊衣
(
へいい
)
を
著
(
き
)
て塾を
出
(
い
)
で、漁村に代って躋寿館に
往
(
ゆ
)
き、
間部家
(
まなべけ
)
に往き、南部家に往いた。
勢
(
いきおい
)
此
(
かく
)
の如くであったので、漁村歿後に至っても、
練塀小路
(
ねりべいこうじ
)
の伝経廬は旧に
依
(
よ
)
って繁栄した。
多年渋江氏に寄食していた
山内豊覚
(
やまのうちほうかく
)
の
妾
(
しょう
)
牧
(
まき
)
は、この年七十七歳を以て、五百の介抱を受けて死んだ。
その七十七
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