その六十
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その六十
渋江氏の勤王はその
源委
(
げんい
)
を
詳
(
つまびらか
)
にしない。しかし抽斎の父允成に至って、師
柴野栗山
(
しばのりつざん
)
に啓発せられたことは疑を
容
(
い
)
れない。允成が栗山に従学した年月は
明
(
あきらか
)
でないが、栗山が五十三歳で幕府の
召
(
めし
)
に応じて江戸に
入
(
い
)
った天明八年には、允成が丁度二十五歳になっていた。家督してから四年の
後
(
のち
)
である。允成が栗山の門に入ったのは、恐らくはその
後
(
ご
)
久しきを経ざる間の事であっただろう。これは栗山が文化四年十二月
朔
(
さく
)
に七十二歳で歿したとして推算したものである。
允成の友にして抽斎の師たりし市野迷庵が勤王家であったことは、その詠史の諸作に徴して知ることが出来る。この詩は維新後森
枳園
(
きえん
)
が刊行した。抽斎は
啻
(
ただ
)
に家庭において王室を
尊崇
(
そんそう
)
する心を養成せられたのみでなく、また迷庵の説を聞いて感奮したらしい。
抽斎の王室における、常に
耿々
(
こうこう
)
の心を
懐
(
いだ
)
いていた。そしてかつて一たびこれがために身命を
危
(
あやう
)
くしたことがある。保さんはこれを母五百に聞いたが、
憾
(
うら
)
むらくはその月日を詳にしない。しかし本所においての出来事で、多分安政三年の頃であったらしいということである。
或日
手島良助
(
てじまりょうすけ
)
というものが抽斎に一の秘事を語った。それは江戸にある某
貴人
(
きにん
)
の窮迫の事であった。貴人は八百両の金がないために、まさに苦境に陥らんとしておられる。手島はこれを調達せんと欲して奔走しているが、これを
獲
(
う
)
る道がないというのであった。抽斎はこれを聞いて慨然として献金を思い立った。抽斎は自家の窮乏を口実として、八百両を
先取
(
さきどり
)
することの出来る
無尽講
(
むじんこう
)
を催した。そして親戚故旧を会して金を
醵出
(
きょしゅつ
)
せしめた。
無尽講の
夜
(
よる
)
、客が
已
(
すで
)
に散じた
後
(
のち
)
、五百は
沐浴
(
もくよく
)
していた。
明朝
(
みょうちょう
)
金を貴人の
許
(
もと
)
に
齎
(
もたら
)
さんがためである。この金を
上
(
たてまつ
)
る日は
予
(
あらかじ
)
め手島をして貴人に
稟
(
もう
)
さしめて置いたのである。
抽斎は
忽
(
たちま
)
ち
剥啄
(
はくたく
)
の声を聞いた。
仲間
(
ちゅうげん
)
が
誰何
(
すいか
)
すると、某貴人の
使
(
つかい
)
だといった。抽斎は引見した。来たのは三人の
侍
(
さぶらい
)
である。内密に
旨
(
むね
)
を伝えたいから、
人払
(
ひとばらい
)
をしてもらいたいという。抽斎は三人を奥の四畳半に
延
(
ひ
)
いた。三人の言う所によれば、貴人は明朝を待たずして金を獲ようとして、この使を発したということである。
抽斎は応ぜなかった。この秘事に
与
(
あずか
)
っている手島は、貴人の
許
(
もと
)
にあって職を奉じている。金は手島を介して
上
(
たてまつ
)
ることを約してある。
面
(
おもて
)
を
識
(
し
)
らざる三人に交付することは出来ぬというのである。三人は手島の来ぬ
事故
(
じこ
)
を語った。抽斎は信ぜないといった。
三人は
互
(
たがい
)
に
目語
(
もくご
)
して身を起し、刀の
(
つか
)
に手を掛けて抽斎を囲んだ。そしていった。我らの
言
(
こと
)
を信ぜぬというは無礼である。かつ重要の
御使
(
おんつかい
)
を承わってこれを果さずに
還
(
かえ
)
っては
面目
(
めんぼく
)
が立たない。主人はどうしても金をわたさぬか。すぐに返事をせよといった。
抽斎は坐したままで
暫
(
しばら
)
く口を
噤
(
つぐ
)
んでいた。三人が
偽
(
いつわり
)
の使だということは既に
明
(
あきらか
)
である。しかしこれと格闘することは、自分の欲せざる所で、また
能
(
あた
)
わざる所である。家には若党がおり諸生がおる。抽斎はこれを呼ぼうか、呼ぶまいかと思って、三人の
気色
(
けしき
)
を
覗
(
うかが
)
っていた。
この時廊下に足音がせずに、
障子
(
しょうじ
)
がすうっと
開
(
あ
)
いた。主客は
斉
(
ひとし
)
く
愕
(
おどろ
)
き
(
み
)
た。
その六十
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||