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その百十
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その百十

 抽斎歿後の第三十一年は明治二十二年である。一月八日に保は東京博文館の もとめ に応じて履歴書、写真並に文稿を寄示した。これが保のこの 書肆 しょし のために書を あらわ すに至った 端緒 たんちょ である。交渉は ようや く歩を進めて、保は次第に暁鐘新報社に とおざ かり、博文館に ちかづ いた。そして十二月二十七日に新報社に告ぐるに、年末を待って主筆を辞することを以てした。然るに新報社は保に退社後なお社説を そう せんことを請うた。
 脩の嫡男 終吉 しゅうきち がこの年十二月一日に鷹匠町二丁目の渋江塾に生れた。即ち今の図案家の渋江終吉さんである。
 抽斎歿後の第三十二年は明治二十三年である。保は三月三日に静岡から入京して、麹町 有楽町 ゆうらくちょう 二丁目二番地 たけ 寄寓 きぐう した。静岡を去るに臨んで、渋江塾を閉じ、英学校、 英華 えいか 学校、文武館三校の教職を辞した。ただ『暁鐘新報』の社説は東京において草することを約した。入京後三月二十六日から博文館のためにする著作翻訳の稿を起した。七月十八日に保は 神田 かんだ 仲猿楽町 なかさるがくちょう 五番地 豊田春賀 とよだしゅんが もと に転寓した。
 保の家には長女福が一月三十日に生れ、二月十七日に よう した。また七月十一日に長男三吉が三歳にして歿した。感応寺の墓に刻してある 智運童子 ちうんどうじ はこの三吉である。
 脩はこの年五月二十九日に単身入京して、六月に 飯田町 いいだまち 補習学会 および 神田猿楽町 有終 ゆうしゅう 学校の英語教師となった。妻子は七月に至って入京した。十二月に脩は鉄道庁第二部傭員となって、遠江国 磐田郡 いわたごおり 袋井 ふくろい 駅に勤務することとなり、また家を挙げて京を去った。
 明治二十四年には保は新居を神田仲猿楽町五番地に ぼく して、七月十七日に起工し、十月一日にこれを らく した。脩は駿河国 駿東郡 すんとうごおり 佐野 さの 駅の駅長助役に転じた。抽斎歿後の第三十三年である。
 二十五年には保の次男 繁次 しげじ が二月十八日に生れ、九月二十三日に夭した。感応寺の墓に 示教 しきょう 童子と刻してある。脩は七月に鉄道庁に 解傭 かいよう を請うて入京し、芝 愛宕下町 あたごしたちょう に住んで、京橋 西紺屋町 にしこんやちょう 秀英舎の漢字校正係になった。脩の次男 行晴 ゆきはる が生れた。この年は抽斎歿後の第三十四年である。
 二十六年には保の次女冬が十二月二十一日に生れた。脩がこの年から俳句を作ることを始めた。「 皮足袋 かわたび の四十に足を踏込みぬ」の句がある。二十七年には脩の次男 行晴 ゆきはる が四月十三日に三歳にして歿した。 くが が十二月に本所 松井町 まついちょう 三丁目四番地福島某の地所に新築した。即ち今の 居宅 きょたく である。長唄の師匠としてのこの人の経歴は、一たび ゆたか のために 頓挫 とんざ したが、その は継続して 今日 こんにち に至っている。なお下方に詳記するであろう。二十八年には保の三男純吉が七月十三日に生れた。二十九年には脩が一月に秀英舎 いち 工場の欧文校正係に転じて、 牛込 うしごめ 二十騎町 にじっきちょう に移った。この月十二日に脩の三男忠三さんが生れた。三十年には保が九月に 根本羽嶽 ねもとうがく の門に って易を問うことを始めた。 長井金風 ながいきんぷう さんの こと るに、羽嶽の師は 野上陳令 のがみちんれい 、陳令の師は山本 北山 ほくざん だそうである。栗本 鋤雲 じょうん が三月六日に七十六歳で歿した。海保漁村の しょう が歿した。三十一年には保が八月三十日に羽嶽の義道館の講師になり、十二月十七日にその評議員になった。脩の長女花が十二月に生れた。島田 篁村 こうそん が八月二十七日に六十一歳で歿した。抽斎歿後の第三十五年 乃至 ないし 第四十年である。