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その二十九
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その二十九

 天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇していた年長者で、抽斎は平素 を鑑賞することについては、なにくれとなく おしえ を乞い、また 古器物 こきぶつ 本艸 ほんぞう の参考に供すべき動植物を するために、筆の 使方 つかいかた 顔料 がんりょう 解方 ときかた などを指図してもらった。それが前年に七十七の賀宴を 両国 りょうごく 万八楼 まんはちろう で催したのを 名残 なごり にして、今年 亡人 なきひと の数に ったのである。跡は文化九年 うまれ で二十九歳になる 文二 ぶんじ いだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻 阿佐 あさ は、もう五年前に夫に さきだ って死んでいたのである。この年抽斎は三十六歳であった。
 天保十二年には、岡西氏 とく 二女 じじょ よし を生んだが、好は早世した。 じゅん 正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男 八三郎 はちさぶろう が生れたが、これも 夭折 ようせつ した。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙する はじめ において、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の詩を挙げて、当時の渋江氏の家族を数えたが、 たちま ち来りち去った むすめ 好の名は あら わすことが出来なかった。
 天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。
 この年に 躋寿館 せいじゅかん で書を講じて、陪臣 町医 まちい に来聴せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始て あらた に講師が任用せられた。 はじめ 館には 都講 とこう 、教授があって、生徒に授業していたに過ぎない。一時 多紀藍渓 たきらんけい 時代に 百日課 ひゃくにちか の制を いて、医学も 経学 けいがく も科を分って、百日を限って講じたことがある。今いうクルズスである。しかしそれも生徒に かせたのである。百日課は四年間で んだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになったのは、この時が始である。五カ月の後、幕府が抽斎を たしむることとなったのは、この制度あるがためである。
 弘化元年は抽斎のために、一大転機を もたら した。社会においては幕府の 直参 じきさん になり、家庭においては岡西氏徳のみまかった跡へ、始て才色兼ね備わった妻が迎えられたのである。
 この一年間の出来事を順次に数えると、先ず二月二十一日に妻徳が亡くなった。三月十二日に 老中 ろうじゅう 土井 どい 大炊頭 おおいのかみ 利位 としつら を以て、抽斎に躋寿館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期 登城 とじょう を命ぜられた。年始、 八朔 はっさく 、五節句、 月並 つきなみ の礼に江戸城に くことになったのである。十一月六日に神田 紺屋町 こんやちょう 鉄物問屋 かなものどいや 山内忠兵衛妹 五百 いお が来り嫁した。 表向 おもてむき は弘前藩目附役百石比良野助太郎妹 かざし として届けられた。十二月十日に幕府から 白銀 はくぎん 五枚を賜わった。これは以下恒例になっているから必ずしも書かない。同月二十六日に長女 いと が幕臣 馬場玄玖 ばばげんきゅう に嫁した。時に年十六である。
 抽斎の岡西氏徳を めと ったのは、その兄玄亭が 相貌 そうぼう も才学も人に優れているのを見て、この人の妹ならと思ったからである。然るに 伉儷 こうれい をなしてから見ると、才貌共に予期したようではなかった。それだけならばまだ かったが、徳は兄には似ないで、かえって父栄玄の 褊狭 へんきょう な気質を受け継いでいた。そしてこれが抽斎にアンチパチイを起させた。
 最初の妻 さだ は貧家の むすめ の具えていそうな美徳を具えていなかったらしく、抽斎の父 允成 ただしげ が或時、 おれ の考が悪かったといって歎息したこともあるそうだが、抽斎はそれほど いや とは思わなかった。 二人 ににん 目の妻 威能 いの 怜悧 れいり で、人を使う才があった。とにかく抽斎に始てアンチパチイを起させたのは、三人目の徳であった。