その四十七
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その四十七
抽斎が岡西氏
徳
(
とく
)
に
生
(
うま
)
せた三人の子の
中
(
うち
)
、ただ
一人
(
ひとり
)
生き残った次男優善は、
少時
(
しょうじ
)
放恣
(
ほうし
)
佚楽
(
いつらく
)
のために、
頗
(
すこぶ
)
る渋江
一家
(
いっか
)
を
困
(
くるし
)
めたものである。優善には
塩田良三
(
しおだりょうさん
)
という
遊蕩
(
ゆうとう
)
夥伴
(
なかま
)
があった。良三はかの蘭軒門下で、指の腹に
杖
(
つえ
)
を立てて歩いたという
楊庵
(
ようあん
)
が、
家附
(
いえつき
)
の
女
(
むすめ
)
に生せた嫡子である。
わたくしは前に優善が父兄と
嗜
(
たしみ
)
を異にして、煙草を
喫
(
の
)
んだということを言った。しかし酒はこの人の好む所でなかった。優善も良三も、共に
涓滴
(
けんてき
)
の量なくして、あらゆる遊戯に
耽
(
ふけ
)
ったのである。
抽斎が座敷牢を造った時、天保六年
生
(
うまれ
)
の優善は二十一歳になっていた。そしてその密友たる良三は天保八年生で、十八歳になっていた。二人は影の形に従う如く、
須臾
(
しゅゆ
)
も相離るることがなかった。
或時優善は
松川飛蝶
(
まつかわひちょう
)
と
名告
(
なの
)
って、
寄席
(
よせ
)
に看板を懸けたことがある。良三は松川
酔蝶
(
すいちょう
)
と名告って、共に高座に登った。
鳴物入
(
なりものいり
)
で俳優の
身振
(
みぶり
)
声色
(
こわいろ
)
を使ったのである。しかも優善はいわゆる
心打
(
しんうち
)
で、良三はその前席を勤めたそうである。また夏になると、二人は舟を
藉
(
か
)
りて
墨田川
(
すみだがわ
)
を
上下
(
じょうか
)
して、
影芝居
(
かげしばい
)
を興行した。一人は津軽家の医官矢島氏の当主、一人は宗家の医官塩田氏の
若檀那
(
わかだんな
)
である。中にも良三の父は神田
松枝町
(
まつえだちょう
)
に開業して、市人に
頓才
(
とんさい
)
のある、
見立
(
みたて
)
の上手な医者と称せられ、その
肥胖
(
ひはん
)
のために
瞽者
(
こしゃ
)
と
看錯
(
みあやま
)
らるる
面
(
おもて
)
をば
汎
(
ひろ
)
く
識
(
し
)
られて、家は富み栄えていた。それでいて二人共に、
高座
(
こうざ
)
に顔を
(
さら
)
すことを
憚
(
はばか
)
らなかったのである。
二人は酒量なきにかかわらず、町々の料理屋に
出入
(
いでいり
)
し、またしばしば吉原に遊んだ。そして借財が出来ると、
親戚
(
しんせき
)
故旧をして
償
(
つぐの
)
わしめ、
度重
(
たびかさな
)
って償う道が
塞
(
ふさ
)
がると、跡を
晦
(
くら
)
ましてしまう。抽斎が優善のために座敷牢を作らせたのは、そういう
失踪
(
しっそう
)
の間の事で、その早晩
還
(
かえ
)
り
来
(
きた
)
るを
候
(
うかが
)
ってこの
中
(
うち
)
に投ぜようとしたのである。
十月二日は地震の日である。空は
陰
(
くも
)
って雨が降ったり
歇
(
や
)
んだりしていた。抽斎はこの日観劇に往った。
周茂叔連
(
しゅうもしゅくれん
)
にも逐次に人の
交迭
(
こうてつ
)
があって、
豊芥子
(
ほうかいし
)
や抽斎が今は最年長者として推されていたことであろう。抽斎は早く帰って、晩酌をして寝た。地震は
亥
(
い
)
の刻に起った。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まって、震動が
漸
(
ようや
)
く
勢
(
いきおい
)
を増した。
寝間
(
ねま
)
にどてらを
著
(
き
)
て
臥
(
ふ
)
していた抽斎は、
撥
(
は
)
ね起きて
枕元
(
まくらもと
)
の両刀を
把
(
と
)
った。そして表座敷へ出ようとした。
寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱が
堆
(
うずたか
)
く積み上げてあった。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れ
墜
(
お
)
ちた。抽斎はその間に
介
(
はさ
)
まって動くことが出来なくなった。
五百
(
いお
)
は起きて夫の
後
(
うしろ
)
に続こうとしたが、これはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。
暫くして若党
仲間
(
ちゅうげん
)
が来て、夫妻を
扶
(
たす
)
け出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかった。
抽斎は衣服を取り繕う
暇
(
ひま
)
もなく、
馳
(
は
)
せて隠居
信順
(
のぶゆき
)
を柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往った。信順は柳島の
第宅
(
ていたく
)
が破損したので、後に
浜町
(
はまちょう
)
の中屋敷に移った。当主
順承
(
ゆきつぐ
)
は弘前にいて、上屋敷には家族のみが残っていたのである。
抽斎は留守居比良野
貞固
(
さだかた
)
に会って、
救恤
(
きゅうじゅつ
)
の事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、
旨
(
むね
)
を
承
(
う
)
くるに
遑
(
いとま
)
あらず、直ちに
廩米
(
りんまい
)
二万五千俵を発して、本所の窮民を
賑
(
にぎわ
)
すことを令した。勘定奉行
平川半治
(
ひらかわはんじ
)
はこの議に
与
(
あずか
)
らなかった。平川は後に藩士が
悉
(
ことごと
)
く津軽に
遷
(
うつ
)
るに及んで、独り
永
(
なが
)
の
暇
(
いとま
)
を願って、
深川
(
ふかがわ
)
に
米店
(
こめみせ
)
を開いた人である。
その四十七
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||