その二十八
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その二十八
枳園
(
きえん
)
は俳優に
伍
(
ご
)
して登場した罪によって、阿部家の禄を失って、
永
(
なが
)
の
暇
(
いとま
)
になった。後に抽斎の四人目の妻となるべき山内氏
五百
(
いお
)
の姉は、阿部家の奥に仕えて、名を
金吾
(
きんご
)
と呼ばれ、枳園をも
識
(
し
)
っていたが、事件の
起
(
おこ
)
る三、四年
前
(
ぜん
)
に暇を取ったので、当時の阿部家における細かい事情を知らなかった。
永の暇になるまでには、相応に評議もあったことであろう。友人の中には、枳園を救おうとした人もあったことであろう。しかし枳園は平生
細節
(
さいせつ
)
に
拘
(
かかわ
)
らぬ人なので、諸方面に対して、世にいう不義理が重なっていた。中にも一、二件の筆紙に
上
(
のぼ
)
すべからざるものもある。救おうとした人も、これらの
障礙
(
しょうがい
)
のために、その志を遂げることが出来なかったらしい。
枳園は江戸で
暫
(
しばら
)
く浪人生活をしていたが、とうとう負債のために、家族を引き連れて
夜逃
(
よにげ
)
をした。恐らくはこの最後の策に
出
(
い
)
づることをば、抽斎にも打明けなかっただろう。それは
面目
(
めんぼく
)
がなかったからである。
矩
(
けっく
)
の道を
紳
(
しん
)
に書していた抽斎をさえ、度々忍びがたき目に
逢
(
あ
)
わせていたからである。
枳園は相模国をさして逃げた。これは当時三十一歳であった枳園には、もう
幾人
(
いくたり
)
かの門人があって、その
中
(
うち
)
に相模の人がいたのをたよって逃げたのである。この
落魄
(
らくたく
)
中の
精
(
くわ
)
しい経歴は、わたくしにはわからない。『
桂川
(
けいせん
)
詩集』、『
遊相医話
(
ゆうそういわ
)
』などという、当時の著述を見たらわかるかも知れぬが、わたくしはまだ見るに及ばない。
寿蔵碑
(
じゅぞうひ
)
には、
浦賀
(
うらが
)
、
大磯
(
おおいそ
)
、
大山
(
おおやま
)
、
日向
(
ひなた
)
、
津久井
(
つくい
)
県の地名が挙げてある。大山は今の大山
町
(
まち
)
、日向は今の
高部屋
(
たかべや
)
村で、どちらも大磯と同じ
中郡
(
なかごおり
)
である。津久井県は今の津久井郡で相模川がこれを貫流している。
桂川
(
かつらがわ
)
はこの川の上流である。
後に枳園の語った所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があったのだそうである。この銭は箱根の
湯本
(
ゆもと
)
に着くと、もう
遣
(
つか
)
い尽していた。そこで枳園はとりあえず
按摩
(
あんま
)
をした。
上下
(
かみしも
)
十六文の
銭
(
しょせん
)
を
獲
(
う
)
るも、なお
已
(
や
)
むにまさったのである。
啻
(
ただ
)
に按摩のみではない。枳園は手当り次第になんでもした。「
無論内外二科
(
ないがいにかをろんずるなく
)
、
或為収生
(
あるいはしゅうせいをなし
)
、
或為整骨
(
あるいはせいこつをなし
)
、
至于牛馬狗之疾
(
ぎゅうばけいくのしつにいたるまで
)
、
来乞治者
(
きたりてちをこうものに
)
、
莫不施術
(
せじゅつせざるはなし
)
」と、自記の文にいってある。
収生
(
しゅうせい
)
はとりあげである。整骨は骨つぎである。獣医の
縄張内
(
なわばりない
)
にも立ち入った。医者の歯を治療するのをだに拒もうとする今の人には、想像することも出来ぬ事である。
老いたる祖母は浦賀で
困厄
(
こんやく
)
の間に歿した。それでも跡に母と妻と子とがある。自己を
併
(
あわ
)
せて四人の口を、
此
(
かく
)
の如き手段で
糊
(
のり
)
しなくてはならなかった。しかし枳園の性格から推せば、この間に処して意気
沮喪
(
そそう
)
することもなく、なお幾分のボンヌ・ユミヨオルを保有していたであろう。
枳園はようよう大磯に落ち着いた。門人が
名主
(
なぬし
)
をしていて、枳園を江戸の大先生として
吹聴
(
ふいちょう
)
し、ここに開業の
運
(
はこび
)
に至ったのである。幾ばくもなくして病家の
数
(
かず
)
が
殖
(
ふ
)
えた。
金帛
(
きんはく
)
を以て謝することの出来ぬものも、米穀
菜蔬
(
さいそ
)
を
輸
(
おく
)
って
庖厨
(
ほうちゅう
)
を
賑
(
にぎわ
)
した。後には遠方から
轎
(
かご
)
を以て迎えられることもある。馬を以て
請
(
しょう
)
ぜられることもある。枳園は大磯を根拠地として、
中
(
なか
)
、
三浦
(
みうら
)
両郡の間を往来し、ここに足掛十二年の月日を過すこととなった。
抽斎は天保九年の春を弘前に迎えた。例の宿直日記に、正月十三日
忌明
(
きあき
)
と書してある。父の喪が果てたのである。続いて第二の冬をも弘前で過して、翌天保十年に、抽斎は藩主
信順
(
のぶゆき
)
に
随
(
したが
)
って江戸に帰った。三十五歳になった年である。
この年五月十五日に、津軽家に
代替
(
だいがわり
)
があった。信順は四十歳で致仕して柳島の下屋敷に
遷
(
うつ
)
り、同じ
齢
(
よわい
)
の
順承
(
ゆきつぐ
)
が
小津軽
(
こつがる
)
から
入
(
い
)
って封を
襲
(
つ
)
いだ。信順は
頗
(
すこぶ
)
る華美を好み、
動
(
やや
)
もすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫を
馴致
(
じゅんち
)
し、遂に引退したのだそうである。
抽斎はこれから隠居信順
附
(
づき
)
にせられて、平日は柳島の
館
(
やかた
)
に勤仕し、ただ折々上屋敷に伺候した。
その二十八
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||