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その十七
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その十七

 わたくしは墨汁師にいった。池田瑞仙の一族は当年の名医である。その墓の 行方 ゆくえ は探討したいものである。それに 戴曼公 たいまんこう の表石というものも、もし存していたら、名蹟の一に算すべきものであろう。嶺松寺にあった無縁の墓は、どこの共同墓地へ うつ されたか知らぬが、もしそれがわかったなら、尋ねに きたいものであるといった。
 墨汁師も首肯していった。戴氏 独立 どくりゅう の表石の事は はじめ て聞いた。池田氏の上のみではない。自分も 黄檗 おうばく 衣鉢 いはつ を伝えた身であって見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはいられない。想うに独立は寛文中九州から師 隠元 いんげん を黄檗山に せい しに のぼ る途中で じゃく したらしいから、江戸には墓はなかっただろう。嶺松寺の表石とはどんな物であったか知らぬが、あるいは 牙髪塔 がはつとう たぐい ででもあったか。それはともかくも、その石の行方も知りたい。心当りの 向々 むきむき へ問い合せて見ようといった。
 わたくしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年の はじめ になった。墨汁師の新年の書信に問合せの結果が しる してあったが、それは すこぶ 覚束 おぼつか ない 口吻 こうふん であった。嶺松寺の廃せられた時、その事に あずか った寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家がなかったらしい。当時無縁の墓を遷した所は、 染井 そめい 共同墓地であった。独立の表石というものは たれ も知らないというのである。
 これでは捜索の前途には、殆ど すこ しの光明をも認めることが出来ない。しかしわたくしは 念晴 ねんばら しのために、染井へ尋ねに った。そして墓地の世話をしているという家を訪うた。
 墓にまいる人に しきみ 綫香 せんこう を売り、また足を休めさせて茶をも飲ませる家で、三十ばかりの 怜悧 かしこ そうなお かみ さんがいた。わたくしはこの女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名にはいうが、その地面には 井然 せいぜん たる区画があって、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家の うち には池田という家はない。池田という檀家がないから、池田という人の墓のありようがないというのである。
「それでも新聞に、 行倒 ゆきだお れがあったのを共同墓地に埋めたということがあるではありませんか。そうして見れば檀家のない仏の く所があるはずです。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあった寺が 取払 とりはらい になって、こっちへ持って来られた仏です。そういう時、石塔があれば石塔も運んで来るでしょう。それをわたくしは尋ねるのです。」こういってわたくしは女の毎区有主説に 反駁 はんばく を試みた。
「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てて る人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たということは、聞いたこともございません。つまりそんな所には石塔なんぞは一つもないのでございます。」
「でもわたくしは 切角 せっかく 尋ねに来たものですから、そこへ往って見ましょう。」
「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがお 受合 うけあい 申しますから。」こういって女は笑った。
 わたくしもげにもと思ったので、墓地には足を れずに引き返した。
 女の こと には疑うべき余地はない。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいような気がした。そこで帰途に町役場に立ち寄って問うた。町役場の人は、墓地の事は扱わぬから、本郷区役所へ往けといった。
 町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かっていた。そこでわたくしは思い直した。廃寺になった嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかったことは明白である。それを区役所に問うのは余りに おろか であろう。むしろ行政上無縁の墓の 取締 とりしまり があるか、もしあるなら、どう取り締まることになっているかということを問うに くはない。その上今から区役所に往った所で、当直の人に墓地の事を問うのは 甲斐 かい のない事であろう。わたくしはこう考えて家に かえ った。