その二十四
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その二十四
石塚重兵衛の祖先は
相模国
(
さがみのくに
)
鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、
下谷
(
したや
)
豊住町
(
とよずみちょう
)
に住んだ。
世
(
よよ
)
粉商
(
こなしょう
)
をしているので、
芥子屋
(
からしや
)
と人に呼ばれた。
真
(
まこと
)
の屋号は鎌倉屋である。
重兵衛も自ら庭に降り立って、芥子の
臼
(
うす
)
を踏むことがあった。そこで豊住町の芥子屋という
意
(
こころ
)
で、自ら
豊芥子
(
ほうかいし
)
と署した。そしてこれを以て世に行われた。その
豊亭
(
ほうてい
)
と号するのも、豊住町に取ったのである。別に
集古堂
(
しゅうこどう
)
という号がある。
重兵衛に
女
(
むすめ
)
が二人あって、長女に壻を迎えたが、壻は
放蕩
(
ほうとう
)
をして離別せられた。しかし後に
浅草
(
あさくさ
)
諏訪町
(
すわちょう
)
の西側の角に移ってから、またその壻を呼び返していたそうである。
重兵衛は文久元年に京都へ
往
(
ゆ
)
こうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であった。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は七歳の
童
(
わらべ
)
であったはずである。
重兵衛の子孫はどうなったかわからない。数年前に
大槻如電
(
おおつきにょでん
)
さんが浅草
北清島町
(
きたきよじまちょう
)
報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓に
詣
(
もう
)
でて、
忌日
(
きにち
)
に墓に来るものは
河竹新七
(
かわたけしんしち
)
一人だということを寺僧に聞いた。河竹にその縁故を問うたら、自分が
黙阿弥
(
もくあみ
)
の門人になったのは、豊芥子の紹介によったからだと答えたそうである。
以上抽斎の友で年長者であったものを数えると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であった
安積艮斎
(
あさかごんさい
)
、十歳であった小島成斎、九歳であった岡本况斎、八歳であった海保漁村がある。医者に当時十一歳であった
多紀庭
(
たきさいてい
)
、二歳であった伊沢
榛軒
(
しんけん
)
がある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。
抽斎が
始
(
はじめ
)
て市野迷庵の門に
入
(
い
)
ったのは文化六年で、師は四十五歳、
弟子
(
ていし
)
は五歳であった。次いで文化十一年に医学を修めんがために、伊沢蘭軒に師事した。師が三十八歳、弟子が十歳の時である。父
允成
(
ただしげ
)
は
経芸
(
けいげい
)
文章を教えることにも、家業の医学を授けることにも、
頗
(
すこぶ
)
る早く意を用いたのである。想うに
後
(
のち
)
に師とすべき
狩谷斎
(
かりやえきさい
)
とは、家庭でも会い、師迷庵の
許
(
もと
)
でも会って、幼い時から親しくなっていたであろう。また後に
莫逆
(
ばくぎゃく
)
の友となった小島成斎も、
夙
(
はや
)
く市野の家で抽斎と同門の
好
(
よしみ
)
を結んだことであろう。抽斎がいつ池田
京水
(
けいすい
)
の門を
敲
(
たた
)
いたかということは今考えることが出来ぬが、恐らくはこれより
後
(
のち
)
の事であろう。
文化十一年十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽
寧親
(
やすちか
)
に謁した。寧親は五十歳、抽斎の父允成は五十一歳、抽斎自己は十歳の時である。想うに謁見の場所は
本所
(
ほんじょ
)
二
(
ふた
)
つ
目
(
め
)
の上屋敷であっただろう。謁見即ち
目見
(
めみえ
)
は抽斎が弘前の士人として受けた礼遇の
始
(
はじめ
)
で、これから
月並
(
つきなみ
)
出仕
(
しゅっし
)
を命ぜられるまでには七年立ち、
番入
(
ばんいり
)
を命ぜられ、家督相続をするまでには八年立っている。
抽斎が迷庵門人となってから八年目、文化十四年に記念すべき事があった。それは抽斎と
森枳園
(
もりきえん
)
とが
交
(
まじわり
)
を訂した事である。枳園は後年これを
弟子入
(
でしいり
)
と称していた。文化四年十一月
生
(
うまれ
)
の枳園は十一歳になっていたから、十三歳の抽斎が十一歳の枳園を弟子に取ったことになる。
森枳園、名は
立之
(
りっし
)
、字は
立夫
(
りつふ
)
、初め
伊織
(
いおり
)
、中ごろ
養真
(
ようしん
)
、後
養竹
(
ようちく
)
と称した。維新後には立之を以て行われていた。父名は
恭忠
(
きょうちゅう
)
、通称は同じく養竹であった。恭忠は備後国福山の城主
阿部
(
あべ
)
伊勢守
正倫
(
まさとも
)
、
同
(
おなじく
)
備中守
正精
(
まさきよ
)
の二代に仕えた。その
男
(
だん
)
枳園を挙げたのは、
北八町堀
(
きたはっちょうぼり
)
竹島町
(
たけしまちょう
)
に住んでいた時である。
後
(
のち
)
『経籍訪古志』に連署すべき
二人
(
ににん
)
は、ここに始て手を握ったのである。
因
(
ちなみ
)
にいうが、枳園は単独に弟子入をしたのではなくて、同じく十一歳であった、弘前の医官
小野道瑛
(
おのどうえい
)
の子
道秀
(
どうしゅう
)
も
袂
(
たもと
)
を
聯
(
つら
)
ねて入門した。
その二十四
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