その百三
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その百三
抽斎歿後の第二十四年は明治十五年である。
一月
(
いちげつ
)
二日に保の友武田準平が
刺客
(
せきかく
)
に殺された。準平の家には母と妻と
女
(
むすめ
)
一人
(
ひとり
)
とがいた。女の壻
秀三
(
ひでぞう
)
は東京帝国大学医科大学の別科生になっていて、家にいなかった。常は諸生がおり、僕がおったが、皆新年に
暇
(
いとま
)
を
乞
(
こ
)
うて帰った。この日家人が
寝
(
しん
)
に
就
(
つ
)
いた
後
(
のち
)
、浴室から火が起った。
唯
(
ただ
)
一人暇を取らずにいた女中が驚き
醒
(
さ
)
めて、
烟
(
けぶり
)
の
厨
(
くりや
)
を
罩
(
こ
)
むるを見、
引窓
(
ひきまど
)
を開きつつ人を呼んだ。浴室は
庖厨
(
ほうちゅう
)
の外に接していたのである。準平は女中の声を聞いて、「なんだ、なんだ」といいつつ、手に
行燈
(
あんどう
)
を
提
(
さ
)
げて厨に出て来た。この時一人の
引廻
(
ひきまわし
)
がっぱを
被
(
き
)
た男が暗中より
起
(
た
)
って、準平に近づいた。準平は行燈を
措
(
お
)
いて奥に
入
(
い
)
った。引廻の男は
尾
(
つ
)
いて入った。準平は奥の廊下から、雨戸を
蹴脱
(
けはず
)
して庭に出た。引廻の男はまた尾いて出た。準平は身に十四カ所の
創
(
きず
)
を負って、庭の
檜
(
ひのき
)
の下に
殪
(
たお
)
れた。檜は老木であったが、前年の暮、十二月二十八日の
夜
(
よ
)
、風のないに折れた。準平はそれを見て、新年を過してから
薪
(
たきぎ
)
に
挽
(
ひ
)
かせようといっていたのである。家人は檜が
讖
(
しん
)
をなしたなどといった。引廻の男は
誰
(
たれ
)
であったか、また
何故
(
なにゆえ
)
に準平を殺したか、
終
(
つい
)
に知ることが出来なかった。
保は報を得て、
馳
(
は
)
せて武田の家に往った。警察署長佐藤某がいる。郡長竹本元※
保は 彼 ( か ) の小結社の故を以て、刺客が手を 動 ( うごか ) したものとは信ぜなかった。しかし 暫 ( しばら ) くは人の 勧 ( すすめ ) に従って巡査の護衛を受けていた。五百は例の懐剣を放さずに持っていて、保にも弾を 填 ( こ ) めた拳銃を備えさせた。進取社は準平が死んでから、何の活動をもなさずに分散した。
保は『横浜毎日新聞』の寄書家になった。『毎日』は島田三郎さんが主筆で、『東京 日々 ( にちにち ) 新聞』の 福地桜痴 ( ふくちおうち ) と論争していたので、保は島田を助けて戦った。主なる論題は主権論、普通選挙論等であった。
普通選挙論では 外山正一 ( とやましょういち ) が福地に応援して、「毎日記者は 盲目 ( めくら ) 蛇 ( へび ) におじざるものだ」といった。これは島田のベンサムを普通選挙論者となしたるは無学のためで、ベンサムは実は制限選挙論者だというのであった。そこで保はベンサムの憲法論について、普通選挙を可とする章句を 鈔出 ( しょうしゅつ ) し、「外山先生は盲目蛇におじざるものだ」という 鸚鵡返 ( おうむがえし ) の報復をした。
これらの論戦の 後 ( のち ) 、保は島田三郎、 沼間守一 ( ぬましゅいち ) 、 肥塚龍 ( こえづかりゅう ) らに 識 ( し ) られた。後に横浜毎日社員になったのは、この縁故があったからである。
保は十二月九日学校の休暇を以て東京に 入 ( い ) った。実は 国府 ( こふ ) を去らんとする意があったのである。
この年矢島 優 ( ゆたか ) は札幌にあって、九月十五日に渋江氏に復籍した。十月二十三日にその妻蝶が歿した。年三十四であった。
山田 脩 ( おさむ ) はこの年 一月 ( いちげつ ) 工部技手に任ぜられ、日本橋電信局、東京府庁電信局等に勤務した。
その百三
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