その四十六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その四十六
米艦が
浦賀
(
うらが
)
に
入
(
い
)
ったのは、二年
前
(
ぜん
)
の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に
艦
(
ふね
)
が再び浦賀に来て、六月に
下田
(
しもだ
)
を去るまで、江戸の
騒擾
(
そうじょう
)
は名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に
甲冑
(
かっちゅう
)
の準備を令した。動員の
備
(
そなえ
)
のない軍隊の
腑甲斐
(
ふがい
)
なさが
覗
(
うかが
)
われる。新将軍
家定
(
いえさだ
)
の
下
(
もと
)
にあって、この難局に当ったのは、柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。
今年
(
こんねん
)
に
入
(
い
)
ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の
梵鐘
(
ぼんしょう
)
を以て大砲小銃を鋳造すべしという
詔
(
みことのり
)
が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた抽斎も、ここに至って
(
やや
)
風潮の
化誘
(
かゆう
)
する所となった。それには当時
産蓐
(
さんじょく
)
にいた
女丈夫
(
じょじょうふ
)
五百
(
いお
)
の
啓沃
(
けいよく
)
も
与
(
あずか
)
って力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至った。
津軽
順承
(
ゆきつぐ
)
は一の進言に接した。これを
上
(
たてまつ
)
ったものは
用人
(
ようにん
)
加藤
清兵衛
(
せいべえ
)
、
側用人
(
そばようにん
)
兼松伴大夫
(
かねまつはんたゆう
)
、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人の
能
(
よ
)
くこれを
遵行
(
じゅんこう
)
するものは少い。
概
(
おおむ
)
ね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶに
遑
(
いとま
)
あらざるのである。
宜
(
よろし
)
く現に甲冑を有せざるものには、金十八両を貸与してこれが
貲
(
し
)
に
充
(
み
)
てしめ、年賦に依って還納せしむべきである。かつ今より後毎年一度甲冑
改
(
あらため
)
を行い、
手入
(
ていれ
)
を怠らしめざるようにせられたいというのである。順承はこれを可とした。
この進言が抽斎の意より
出
(
い
)
で、兼松三郎がこれを
承
(
う
)
けて案を具し、両用人の賛同を得て呈せられたということは、
闔藩
(
こうはん
)
皆これを知っていた。三郎は
石居
(
せききょ
)
と号した。その
隆準
(
りゅうじゅん
)
なるを以ての故に、抽斎は
天狗
(
てんぐ
)
と呼んでいた。佐藤一斎、
古賀庵
(
こがとうあん
)
の門人で、学殖
儕輩
(
せいはい
)
を
超
(
こ
)
え、かつて
昌平黌
(
しょうへいこう
)
の舎長となったこともある。当時弘前
吏胥
(
りしょ
)
中の識者として聞えていた。
抽斎は天下多事の日に際会して、
言
(
こと
)
偶
(
たまたま
)
政事に及び、武備に及んだが、
此
(
かく
)
の如きは
固
(
もと
)
よりその
本色
(
ほんしょく
)
ではなかった。抽斎の
旦暮
(
たんぼ
)
力を用いる所は、古書を講窮し、古義を
闡明
(
せんめい
)
するにあった。彼は弘前藩士たる抽斎が、外来の事物に応じて動作した一時のレアクションである。
此
(
これ
)
は学者たる抽斎が、終生従事していた不朽の労作である。
抽斎の校勘の業はこの頃着々
進陟
(
しんちょく
)
していたらしい。森枳園が明治十八年に書いた『経籍訪古志』の
跋
(
ばつ
)
に、
緑汀会
(
りょくていかい
)
の事を
記
(
しる
)
して、三十年前だといってある。緑汀とは
多紀庭
(
たきさいてい
)
が本所緑町の別荘である。庭は
毎月
(
まいげつ
)
一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村らを
此
(
ここ
)
に
集
(
つど
)
えた。諸子は環坐して
古本
(
こほん
)
を披閲し、これが論定をなした。会の
後
(
のち
)
には宴を開いた。さて
二州橋上酔
(
にしゅうきょうじょうえい
)
に乗じて月を踏み、詩を詠じて帰ったというのである。同じ書に、庭がこの年安政二年より一年の後に書いた跋があって、
諸子録
(
ほうろく
)
惟
(
こ
)
れ勤め、各部
頓
(
とみ
)
に成るといってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、また当時の事であったと見える。
わたくしはこの年の地震の事を語るに
先
(
さきだ
)
って、台所町の渋江の家に
座敷牢
(
ざしきろう
)
があったということに説き及ぼすのを
悲
(
かなし
)
む。これは二階の
一室
(
いっしつ
)
を
繞
(
めぐら
)
すに
四目格子
(
よつめごうし
)
を以てしたもので、地震の日には工事既に
竣
(
おわ
)
って、その中はなお空虚であった。もし人がその中にいたならば、渋江の家は死者を
出
(
いだ
)
さざることを得なかったであろう。
座敷牢は抽斎が忍びがたきを忍んで、次男
優善
(
やすよし
)
がために設けたものであった。
その四十六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||