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その九十六
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その九十六

 この年には弘前から東京に出て来るものが多かった。比良野 貞固 さだかた もその 一人 ひとり で、或日突然 たもつ が横網町の下宿に来て、「今 いた」といった。貞固は妻 てる と六歳になる むすめ りゅう とを連れて来て、百本 ぐい の側に つな がせた舟の中に のこ して置いて、独り上陸したのである。さて差当り保と同居するつもりだといった。
 保は即座に承引して、「御遠慮なく奥さんやお嬢さんをお つれ 下さい、 追附 おっつけ 母も弘前から参るはずになっていますから」といった。しかし保は ひそか に心を くるし めた。なぜというに、保は鈴木の 女主人 おんなあるじ に月二両の下宿代を払う約束をしていながら、学資の方が足らぬがちなので、まだ一度も払わずにいた。そこへ にわか に三人の客を迎えなくてはならなくなった。それが の人ならば、 宿料 しゅくりょう を取ることも出来よう。貞固は おのれ が主人となっては、人に銭を使わせたことがないのである。保はどうしても四人前の費用を弁ぜなくてはならない。これが苦労の一つである。またこの 界隈 かいわい ではまだ 糸鬢奴 いとびんやっこ のお 留守居 るすい 見識 みし っている人が多い。それを横網町の下宿に やど らせるのが気の毒でならない。これが保の苦労の二つである。
 保はこれを忍んで数カ月間三人を かんたい した。そして殆ど 日々 にちにち 貞固を横山町の尾張屋に連れて往って 馳走 ちそう した。貞固は養子房之助の弘前から来るまで、保の下宿にいて、房之助が著いた時、一しょに本所緑町に家を借りて移った。丁度保が母親を故郷から迎える頃の事である。
 矢川文内もこの年に東京に来た。浅越玄隆も来た。矢川は 質店 しちみせ を開いたが成功しなかった。浅越は名を りゅう あらた めて、あるいは東京府の吏となり、あるいは本所区役所の書記となり、あるいは本所銀行の事務員となりなどした。浅越の子は四人あった。江戸 うまれ の長女ふくは 中沢彦吾 なかざわひこきち の弟彦七の妻になり、男子 二人 ににん うち 、兄は洋画家となり、弟は電信技手となった。
 五百と一しょに東京に来た くが が、夫矢川文一郎の名を以て、本所緑町に 砂糖店 さとうみせ を開いたのもこの年の事である。長尾の むすめ 敬の夫三河屋力蔵の開いていた 猿若町 さるわかちょう 引手茶屋 ひきてぢゃや は、この年十月に 新富町 しんとみちょう うつ った。 守田勘弥 もりたかんや の守田座が二月に府庁の許可を得て、十月に開演することになったからである。
 この年六月に海保 竹逕 ちくけい が歿した。文政七年 うまれ であるから、四十九歳を以て終ったのである。前年来 また 弁之助と称せずして、名の 元起 げんき を以て行われていた。竹逕の歿した時、家に遺ったのは養父漁村の しょう 某氏と竹逕の子女 おのおの 一人 いちにん とである。嗣子 繁松 しげまつ は文久二年生で、家を継いだ時七歳になっていた。竹逕が歿してからは、保は島田 篁村 こうそん を漢学の師と仰いだ。天保九年に生れた篁村は三十五歳になっていたのである。
 抽斎歿彼の第十五年は明治六年である。二月十日に渋江氏は当時の第六 大区 だいく 六小区本所 相生町 あいおいちょう 四丁目に しゅうきょ した。五百が五十八歳、保が十七歳の時である。家族は初め母子の外に 水木 みき がいたばかりであるが、 のち には山田脩が来て同居した。脩はこの頃 喘息 ぜんそく に悩んでいたので、割下水の家を畳んで、母の世話になりに来たのである。
 五百は東京に来てから早く一戸を構えたいと思っていたが、現金の たくわえ は殆ど尽きていたので、 奈何 いかん ともすることが出来なかった。既にして保が師範学校から月額十円の支給を受けることになり、五百は世話をするものがあって、不本意ながらも芸者屋のために裁縫をして、多少の賃銀を得ることになった。相生町の家は ここ に至って はじめ て借りられたのである。