その七十八
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その七十八
抽斎の姉
須磨
(
すま
)
が
飯田良清
(
いいだよしきよ
)
に嫁して生んだ
女
(
むすめ
)
二人
(
ふたり
)
の中で、長女
延
(
のぶ
)
は
小舟町
(
こぶねちょう
)
の
新井屋半七
(
あらいやはんしち
)
が妻となって死に、次女
路
(
みち
)
が残っていた。路は
痘瘡
(
とうそう
)
のために
貌
(
かたち
)
を
傷
(
やぶ
)
られていたのを、多分この年の頃であっただろう、三百石の旗本で戸田某という老人が後妻に迎えた。戸田氏は旗本中に
頗
(
すこぶ
)
る多いので、今考えることが出来にくい。良清の家は、須磨の生んだ長男
直之助
(
なおのすけ
)
が夭折した跡へ、孫三郎という養子が来て継いでから、もう久しうなっていた。飯田孫三郎は十年
前
(
ぜん
)
の安政三年から、「武鑑」の
徒目附
(
かちめつけ
)
の部に載せられている。住所は初め
湯島
(
ゆしま
)
天沢寺前
(
てんたくじまえ
)
としてあって、後には湯島天神裏門前としてある。保さんの記憶している家は
麟祥院前
(
りんしょういんまえ
)
の
猿飴
(
さるあめ
)
の横町であったそうである。孫三郎は維新後静岡県の官吏になって、
良政
(
よしまさ
)
と称し、後また東京に
入
(
い
)
って、
下谷
(
したや
)
車坂町
(
くるまざかちょう
)
で終ったそうである。
比良野
貞固
(
さだかた
)
は妻かなが歿した
後
(
のち
)
、稲葉氏から来た養子
房之助
(
ふさのすけ
)
と二人で、
鰥暮
(
やもめぐら
)
しをしていたが、無妻で留守居を勤めることは出来ぬと説くものが多いので、貞固の心がやや動いた。この年の頃になって、
媒人
(
なこうど
)
が
表坊主
(
おもてぼうず
)
大須
(
おおす
)
というものの
女
(
むすめ
)
照
(
てる
)
を
娶
(
めと
)
れと勧めた。「武鑑」を検するに、慶応二年に勤めていたこの氏の表坊主父子がある。父は
玄喜
(
げんき
)
、子は
玄悦
(
げんえつ
)
で、
麹町
(
こうじまち
)
三軒家
(
さんげんや
)
の同じ家に住んでいた。照は玄喜の
女
(
むすめ
)
で、玄悦の妹ではあるまいか。
貞固は津軽家の留守居役所で使っている
下役
(
したやく
)
杉浦喜左衛門
(
すぎうらきざえもん
)
を
遣
(
や
)
って、照を見させた。杉浦は老実な人物で、貞固が信任していたからである。照に逢って来た杉浦は、盛んに照の美を賞して、その
言語
(
げんぎょ
)
その挙止さえいかにもしとやかだといった。
結納
(
ゆいのう
)
は
取換
(
とりかわ
)
された。婚礼の当日に、
五百
(
いお
)
は比良野の家に往って新婦を待ち受けることになった。貞固と五百とが窓の
下
(
もと
)
に対坐していると、新婦の
轎
(
かご
)
は門内に
舁
(
か
)
き入れられた。五百は轎を出る女を見て驚いた。身の
丈
(
たけ
)
極
(
きわめ
)
て小さく、色は黒く鼻は低い。その上口が
尖
(
とが
)
って歯が出ている。五百は貞固を顧みた。貞固は
苦笑
(
にがわら
)
をして、「お
姉
(
あね
)
えさん、あれが花よめ
御
(
ご
)
ですぜ」といった。
新婦が来てから
杯
(
さかずき
)
をするまでには時が立った。五百は杉浦のおらぬのを
怪
(
あやし
)
んで問うと、よめの来たのを迎えてすぐに、比良野の馬を借りて、どこかへ乗って往ったということであった。
暫らくして杉浦は五百と貞固との前へ出て、
(
ひたい
)
の汗を
拭
(
ぬぐ
)
いつついった。「実に
分疏
(
もうしわけ
)
がございません。わたくしはお照殿にお近づきになりたいと、先方へ申し込んで、先方からも委細承知したという返事があって参ったのでございます。その席へ立派にお化粧をして茶を運んで出て、暫時わたくしの前にすわっていて、時候の
挨拶
(
あいさつ
)
をいたしたのは、
兼
(
かね
)
て申し上げたとおりの美しい女でございました。
今日
(
こんにち
)
参ったよめ
御
(
ご
)
は、その日に菓子鉢か何か持って出て、
閾
(
しきい
)
の内までちょっとはいったきりで、すぐに引き取りました。わたくしはよもやあれがお照殿であろうとは存じませなんだ。余りの間違でございますので、お馬を借用して、大須家へ駆け付けて尋ねましたところが、御挨拶をさせた女は照のお引合せをいたさせた
倅
(
せがれ
)
のよめでございますという返答でございます。全くわたくしの
粗忽
(
そこつ
)
で」といって、杉浦はまたの汗を拭った。
その七十八
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||