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その三十四
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その三十四

  五百 いお は父忠兵衛をいたわり慰め、兄栄次郎を いさ め励まして、風浪に もてあそ ばれている日野屋という船の かじ を取った。そして忠兵衛の異母兄で十人衆を勤めた 大孫 おおまご ぼう を証人に立てて、兄をして廃嫡を免れしめた。
 忠兵衛は十二月七日に歿した。日野屋の財産は 一旦 いったん 忠兵衛の意志に って五百の名に書き えられたが、五百は直ちにこれを兄に返した。
 五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために 新少納言 しんしょうなごん と呼ばれたという一面がある。同じ頃 狩谷斎 かりやえきさい むすめ たか に少納言の称があったので、五百はこれに むか えてかく呼ばれたのである。
 五百の師として つか えた人には、経学に佐藤一斎、 筆札 ひっさつ 生方鼎斎 うぶかたていさい 、絵画に谷文晁、和歌に 前田夏蔭 まえだなつかげ があるそうである。十一、二歳の時 はや く奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度ごとに講釈を くとか、手本を貰って習って清書を見せに往くとか、兼題の歌を詠んで直してもらうとかいう 稽古 けいこ 為方 しかた であっただろう。
 師匠の うち で最も老年であったのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であったのが鼎斎である。年齢を推算するに、五百の生れた文化十三年には、文晁が五十四、一斎が四十五、夏蔭が二十四、鼎斎が十八になっていた。
 文晁は前にいったとおり、天保十一年に七十八で歿した。五百が二十五の時である。一斎は安政六年九月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時である。夏蔭は 元治 げんじ 元年八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎斎は安政三年正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時である。鼎斎は画家 福田半香 ふくだはんこう 村松町 むらまつちょう の家へ年始の礼に往って酒に い、水戸の剣客某と口論をし出して、其の門人に斬られたのである。
 五百は鼎斎を師とした外に、 近衛予楽院 このえよらくいん 橘千蔭 たちばなのちかげ との筆跡を 臨模 りんも したことがあるそうである。予楽院 家煕 いえひろ 元文 げんぶん 元年に こう じた。五百の生れる前八十年である。 芳宜園千蔭 はぎぞのちかげ は身分が町奉行 与力 よりき で、加藤 又左衛門 またざえもん と称し、文化五年に歿した。五百の生れる前八年である。
 五百は藤堂家を下ってから五年目に渋江氏に嫁した。 おさな い時から親しい人を夫にするのではあるが、五百の身に取っては、自分が抽斎に嫁し得るというポッシビリテエの生じたのは、二月に岡西氏 とく が亡くなってから のち の事である。常に往来していた渋江の家であるから、五百は徳の亡くなった二月から、自分の嫁して来る十一月までの間にも、抽斎を うたことがある。未婚男女の交際とか自由結婚とかいう問題は、当時の人は夢にだに知らなかった。立派な教育のある 二人 ふたり が、男は四十歳、女は二十九歳で、多く年を けみ した友人関係を棄てて、 にわか に夫婦関係に ったのである。当時においては、 醒覚 せいかく せる 二人 ににん の間に、 かく の如く婚約が整ったということは、 たえ てなくして わずか にあるものといって好かろう。
 わたくしは 鰥夫 おとこやもめ になった抽斎の もと へ、五百の とぶら い来た時の緊張したシチュアションを想像する。そして たもつ さんの語った 豊芥子 ほうかいし の逸事を おも い起して 可笑 おか しく思う。五百の渋江へ嫁入する前であった。或日五百が来て抽斎と話をしていると、そこへ豊芥子が竹の 皮包 かわつつみ を持って来合せた。そして包を開いて抽斎に すし すす め、自分も食い、五百に是非食えといった。後に五百は、あの時ほど困ったことはないといったそうである。