その八十四
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その八十四
小野元秀は弘前藩士
対馬幾次郎
(
つしまいくじろう
)
の次男で、
小字
(
おさなな
)
を
常吉
(
つねきち
)
といった。十六、七歳の時、父幾次郎が急に病を発した。常吉は半夜
馳
(
は
)
せて医師某の
許
(
もと
)
に往った。某は家にいたのに、
来
(
きた
)
り診することを
肯
(
がえん
)
ぜなかった。常吉はこの時父のために憂え、某のために
惜
(
おし
)
んで、心にこれを
牢記
(
ろうき
)
していた。後に医となってから、人の病あるを聞くごとに、家の貧富を問わず、地の遠近を論ぜず、
食
(
くら
)
うときには
箸
(
はし
)
を投じ、
臥
(
ふ
)
したるときには
被
(
ひ
)
を
蹴
(
け
)
て
起
(
た
)
ち、
径
(
ただ
)
ちに
往
(
ゆ
)
いて診したのは、少時の
苦
(
にが
)
き経験を忘れなかったためだそうである。元秀は二十六歳にして同藩の小野
秀徳
(
しゅうとく
)
の養子となり、その長女そのに配せられた。
元秀は忠誠にして廉潔であった。近習医に任ぜられてからは、
詰所
(
つめしょ
)
に
出入
(
いでいり
)
するに、
朝
(
あした
)
には人に先んじて
往
(
ゆ
)
き、
夕
(
ゆうべ
)
には人に後れて
反
(
かえ
)
った。そして公退後には士庶の病人に接して、
絶
(
たえ
)
て
倦
(
う
)
む色がなかった。
稽古館教授にして、
五十石町
(
ごじっこくまち
)
に私塾を開いていた
工藤他山
(
くどうたざん
)
は、元秀と親善であった。これは他山がいまだ仕途に
就
(
つ
)
かなかった時、元秀がその貧を知って、
(
しょ
)
を受けずして
懇
(
ねんごろ
)
に治療した時からの
交
(
まじわり
)
である。他山の子
外崎
(
とのさき
)
さんも元秀を
識
(
し
)
っていたが、これを評して温潤良玉の如き人であったといっている。五百が専六をして元秀に従学せしめたのは、実にその人を獲たものというべきである。
元秀の養子
完造
(
かんぞう
)
は
本
(
もと
)
山崎氏で、蘭法医伊東玄朴の門人である。完造の養子
芳甫
(
ほうほ
)
さんは
本
(
もと
)
鳴海
(
なるみ
)
氏で、今弘前の
北川端町
(
きたかわばたちょう
)
に住んでいる。元秀の実家の
裔
(
すえ
)
は弘前の
徒町
(
かちまち
)
川端町の対馬
※蔵
(
しょうぞう
)
専六は元秀の如き良師を得たが、 憾 ( うら ) むらくは心、医となることを欲せなかった。弘前の人は 毎 ( つね ) に、 円頂 ( えんちょう ) の専六が 筒袖 ( つつそで ) の 衣 ( い ) を 著 ( き ) 、 短袴 ( たんこ ) を 穿 ( は ) き、 赤毛布 ( あかもうふ ) を 纏 ( まと ) って銃を負い、山野を 跋渉 ( ばっしょう ) するのを見た。これは当時の兵士の服装である。
専六は兵士の間に 交 ( まじわり ) を求めた。兵士らは呼ぶに医者銃隊の名を以てして、 頗 ( すこぶ ) るこれを愛好した。
時に弘前に 徙 ( うつ ) った 定府 ( じょうふ ) 中に、 山澄吉蔵 ( やまずみきちぞう ) というものがあった。名を 直清 ( なおきよ ) といって、津軽藩が文久三年に江戸に 遣 ( や ) った海軍修行生徒七人の 中 ( うち ) で、中小姓を勤めていた。 築地 ( つきじ ) 海軍操練所で算数の学を修め、次で塾の教員の列に加わった。弘前に徙って間もなく、山澄は 熕隊 ( こうたい ) 司令官にせられた。兵士中 身 ( み ) を立てんと欲するものは、多くこの山澄を師として 洋算 ( ようざん ) を学んだ。専六もまた藤田 潜 ( ひそむ ) 、 柏原櫟蔵 ( かしわばられきぞう ) らと共に山澄の門に 入 ( い ) って、洋算簿記を学ぶこととなり、いつとなく元秀の 講筵 ( こうえん ) には臨まなくなった。 後 ( のち ) 山澄は海軍大尉を以て終り、柏原は海軍少将を以て終った。藤田さんは今 攻玉 ( こうぎょく ) 社長 ( しゃちょう ) をしている。攻玉社は後に 近藤真琴 ( こんどうまこと ) の塾に命ぜられた名である。初め 麹町 ( こうじまち ) 八丁目の 鳥羽 ( とば ) 藩主稲垣対馬守 長和 ( ながかず ) の邸内にあったのが、中ごろ築地海軍操練所内に移るに及んで、始めて攻玉塾と称し、次で 芝 ( しば ) 神明町 ( しんめいちょう ) の 商船黌 ( しょうせんこう ) と、 芝 ( しば ) 新銭座 ( しんせんざ ) の陸地測量習練所とに分離し、二者の総称が攻玉社となり、明治十九年に至るまで、近藤自らこれを経営していたのである。
その八十四
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