その六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その六
外崎
(
とのさき
)
さんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」
わたくしは釈然とした。
抽斎渋江道純は
経史子集
(
けいしししゅう
)
や医籍を渉猟して考証の書を
著
(
あらわ
)
したばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証の
迹
(
あと
)
を手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』は
即
(
すなわ
)
ち「古武鑑」古江戸図の訪古志である。
惟
(
ただ
)
経史子集は世の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一の
徐承祖
(
じょしょうそ
)
を得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力な
好事家
(
こうずか
)
が
偶
(
たまたま
)
一顧するに過ぎないから、その目録は
僅
(
わずか
)
に存して人が
識
(
し
)
らずにいるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館の
保護
(
ほうご
)
を受けているのを、せめてもの
僥倖
(
ぎょうこう
)
としなくてはならない。
わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして
経書
(
けいしょ
)
や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が
頗
(
すこぶ
)
るわたくしと相似ている。ただその
相殊
(
あいこと
)
なる所は、古今
時
(
とき
)
を
異
(
こと
)
にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい
差別
(
しゃべつ
)
がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは
雑駁
(
ざっぱく
)
なるヂレッタンチスムの
境界
(
きょうがい
)
を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に
視
(
み
)
て
忸怩
(
じくじ
)
たらざることを得ない。
抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの
比
(
たぐい
)
ではなかった。
迥
(
はるか
)
にわたくしに
優
(
まさ
)
った
済勝
(
せいしょう
)
の具を有していた。抽斎はわたくしのためには
畏敬
(
いけい
)
すべき人である。
然
(
しか
)
るに奇とすべきは、その人が
康衢
(
こうく
)
通逵
(
つうき
)
をばかり歩いていずに、往々
径
(
こみち
)
に
由
(
よ
)
って行くことをもしたという事である。抽斎は
宋槧
(
そうざん
)
の経子を
討
(
もと
)
めたばかりでなく、古い「武鑑」や江戸図をも
翫
(
もてあそ
)
んだ。もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の
袖
(
そで
)
は
横町
(
よこちょう
)
の
溝板
(
どぶいた
)
の上で
摩
(
す
)
れ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間に
(
なじ
)
みが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。
わたくしはこう思う心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎の
何人
(
なんひと
)
なるかを知らずに、漫然抽斎のマニュスクリイの
蔵※者
(
ぞうきょしゃ
)
外崎さんも事の奇なるに驚いていった。「抽斎の子なら、わたくしは織っています。」
「そうですか。長唄のお師匠さんだそうですね。」
「いいえ。それは知りません。わたくしの知っているのは抽斎の跡を継いだ子で、 保 ( たもつ ) という人です。」
「はあ。それでは渋江保という人が、抽斎の 嗣子 ( しし ) であったのですか。今保さんは 何処 ( どこ ) に住んでいますか。」
「さあ。 大 ( だい ) ぶ久しく逢いませんから、ちょっと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知っているものがありましょうから、近日聞き合せて上げましょう。」
その六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||