その十四
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その十四
後に抽斎に医学を授ける人は伊沢蘭軒である。名は
信恬
(
しんてん
)
、通称は
辞安
(
じあん
)
という。伊沢
氏
(
うじ
)
の
宗家
(
そうか
)
は
筑前国
(
ちくぜんのくに
)
福岡
(
ふくおか
)
の城主
黒田家
(
くろだけ
)
の臣であるが、蘭軒はその分家で、
備後国
(
びんごのくに
)
福山の城主
阿部伊勢守
(
あべいせのかみ
)
正倫
(
まさとも
)
の臣である。文政十二年三月十七日に歿して、享年五十三であったというから、抽斎の生れた時二十九歳で、
本郷
(
ほんごう
)
真砂町
(
まさごちょう
)
に住んでいた。阿部家は既に
備中守
(
びっちゅうのかみ
)
正精
(
まさきよ
)
の世になっていた。蘭軒が本郷丸山の阿部家の中屋敷に移ったのは後の事である。
阿部家は
尋
(
つい
)
で文政九年八月に
代替
(
だいがわり
)
となって、伊予守
正寧
(
まさやす
)
が
封
(
ほう
)
を
襲
(
つ
)
いだから、蘭軒は正寧の世になった
後
(
のち
)
、
足掛
(
あしかけ
)
四年阿部家の
館
(
やかた
)
に
出入
(
いでいり
)
した。その頃抽斎の四人目の妻
五百
(
いお
)
の姉が、正寧の
室
(
しつ
)
鍋島氏
(
なべしまうじ
)
の女小姓を勤めて
金吾
(
きんご
)
と呼ばれていた。この金吾の話に、蘭軒は
蹇
(
あしなえ
)
であったので、
館内
(
かんない
)
で
輦
(
れん
)
に乗ることを許されていた。さて輦から降りて、
匍匐
(
ほふく
)
して
君側
(
くんそく
)
に進むと、阿部家の奥女中が目を見合せて笑った。
或日
(
あるひ
)
正寧が
偶
(
たまたま
)
この事を聞き知って、「辞安は足はなくても、腹が
二人前
(
ににんまえ
)
あるぞ」といって、女中を戒めさせたということである。
次は抽斎の
痘科
(
とうか
)
の師となるべき人である。池田氏、名は
※
(
いん
)
原来 ( がんらい ) 疱瘡 ( ほうそう ) を治療する法は、久しく我国には行われずにいた。病が少しく重くなると、尋常の医家は手を 束 ( つか ) ねて 傍看 ( ぼうかん ) した。そこへ 承応 ( じょうおう ) 二年に 戴曼公 ( たいまんこう ) が支那から渡って来て、不治の病を 治 ( ち ) し始めた。 廷賢 ( きょうていけん ) を 宗 ( そう ) とする治法を施したのである。曼公、名は 笠 ( りつ ) 、 杭州 ( こうしゅう ) 仁和県 ( じんわけん ) の人で、曼公とはその 字 ( あざな ) である。 明 ( みん ) の 万暦 ( ばんれき ) 二十四年の 生 ( うまれ ) であるから、長崎に来た時は五十八歳であった。曼公が 周防国 ( すおうのくに ) 岩国 ( いわくに ) に足を留めていた時、池田 嵩山 ( すうざん ) というものが治痘の法を受けた。嵩山は 吉川 ( きっかわ ) 家の医官で、名を 正直 ( せいちょく ) という。 先祖 ( せんそ ) は 蒲冠者 ( かばのかんじゃ ) 範頼 ( のりより ) から出て、 世々 ( よよ ) 出雲 ( いずも ) におり、 生田 ( いくた ) 氏を称した。正直の 数世 ( すせい ) の祖 信重 ( しんちょう ) が出雲から岩国に 遷 ( うつ ) って、 始 ( はじめ ) て池田氏に 更 ( あらた ) めたのである。正直の子が 信之 ( しんし ) 、信之の養子が 正明 ( せいめい ) で、皆曼公の遺法を伝えていた。
然るに寛保二年に正明が病んでまさに歿せんとする時、その子 独美 ( どくび ) は 僅 ( わずか ) に九歳であった。正明は法を弟 槙本坊詮応 ( まきもとぼうせんおう ) に伝えて置いて 瞑 ( めい ) した。そのうち独美は人と成って、詮応に学んで父祖の法を得た。宝暦十二年独美は母を奉じて 安芸国 ( あきのくに ) 厳島 ( いつくしま ) に遷った。厳島に疱瘡が 盛 ( さかん ) に流行したからである。安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪に 往 ( ゆ ) き、 西堀江 ( にしほりえ ) 隆平橋 ( りゅうへいばし ) の 畔 ( ほとり ) に住んだ。この時独美は四十四歳であった。
独美は寛政四年に京都に出て、 東洞院 ( ひがしのとういん ) に住んだ。この時五十九歳であった。八年に徳川 家斉 ( いえなり ) に 辟 ( め ) されて、九年に江戸に 入 ( い ) り、 駿河台 ( するがだい ) に住んだ。この年三月独美は 躋寿館 ( せいじゅかん ) で痘科を講ずることになって、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。
抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。 遺骸 ( いがい ) は 向島 ( むこうじま ) 小梅村 ( こうめむら ) の 嶺松寺 ( れいしょうじ ) に葬られた。
独美、字は 善卿 ( ぜんけい ) 、通称は 瑞仙 ( ずいせん ) 、 錦橋 ( きんきょう ) また 蟾翁 ( せんおう ) と号した。その蟾翁と号したには面白い話がある。独美は或時大きい 蝦蟇 ( がま ) を夢に見た。それから『 抱朴子 ( ほうぼくし ) 』を読んで、その夢を 祥瑞 ( しょうずい ) だと思って、蝦蟇の 画 ( え ) をかき、蝦蟇の彫刻をして人に贈った。これが蟾翁の号の由来である。
その十四
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