その五
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その五
わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかった。
切角
(
せっかく
)
道純を
識
(
し
)
っていた人に会ったのに、子孫のいるかいないかもわからず、墓所を問うたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしは
暇乞
(
いとまごい
)
をしようとした。その時飯田さんが、「ちょいとお
待
(
まち
)
下さい、念のために
妻
(
さい
)
にきいて見ますから」といった。
細君
(
さいくん
)
が席に呼び入れられた。そしてもし渋江道純の跡がどうなっているか知らぬかと問われて答えた。「道純さんの娘さんが本所
松井町
(
まついちょう
)
の
杵屋勝久
(
きねやかつひさ
)
さんでございます。」
『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。それを本所に訪ねて、「お
父
(
と
)
うさんに抽斎という別号がありましたか」とか、「お父うさんは「武鑑」を集めてお
出
(
いで
)
でしたか」とかいうのは、余りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。
わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問い合わせてもらうことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。
二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江
終吉
(
しゅうきち
)
という
甥
(
おい
)
があって、
下渋谷
(
しもしぶや
)
に住んでいるというのである。杵屋さんの甥といえば、道純から見れば、孫でなくてはならない。そうして見れば、道純には娘があり孫があって現存しているのである。
わたくしは
直
(
すぐ
)
に終吉さんに手紙を出して、
何時
(
いつ
)
何処
(
どこ
)
へ往ったら
逢
(
あ
)
われようかと問うた。返事は直に来た。今
風邪
(
ふうじゃ
)
で寝ているが、なおったらこっちから往っても
好
(
い
)
いというのである。
手跡
(
しゅせき
)
はまだ
少
(
わか
)
い人らしい。
わたくしは
曠
(
むな
)
しく終吉さんの
病
(
やまい
)
の
癒
(
い
)
えるのを待たなくてはならぬことになった。探索はここに
一頓挫
(
とんざ
)
を
来
(
きた
)
さなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思って、この
隙
(
ひま
)
に弘前から、歴史家として道純の事を知っていそうだと知らせて来た
外崎覚
(
とのさきかく
)
という人を訪ねることにした。
外崎さんは官吏で、籍が
諸陵寮
(
しょりょうりょう
)
にある。わたくしは宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れた
霞
(
かすみ
)
が
関
(
せき
)
の
三年坂上
(
さんねんざかうえ
)
にあることを教えられた。常に宮内省には
往来
(
ゆきき
)
しても、諸陵寮がどこにあるということは知らなかったのである。
諸陵寮の小さい
応接所
(
おうせつじょ
)
で、わたくしは初めて外崎さんに会った。飯田さんの先輩であったとは違って、この人はわたくしと
齢
(
よわい
)
も
相若
(
あいし
)
くという位で、しかも史学を以て仕えている人である。わたくしは
傾蓋
(
けいがい
)
故
(
ふる
)
きが如き
念
(
おもい
)
をした。
初対面の
挨拶
(
あいさつ
)
が済んで、わたくしは来意を
陳
(
の
)
べた。「武鑑」を蒐集している事、「
古
(
こ
)
武鑑」に精通していた無名の人の著述が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と渋江とがもしや同人ではあるまいかと思っている事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。
その五
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||