その二十二
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その二十二
真志屋五郎作は神田
新石町
(
しんこくちょう
)
の菓子商であった。
水戸家
(
みとけ
)
の
賄方
(
まかないかた
)
を勤めた家で、
或
(
ある
)
時代から
故
(
ゆえ
)
あって
世禄
(
せいろく
)
三百俵を給せられていた。
巷説
(
こうせつ
)
には水戸侯と血縁があるなどといったそうであるが、どうしてそんな説が
流布
(
るふ
)
せられたものか、今考えることが出来ない。わたくしはただ
風采
(
ふうさい
)
が
好
(
よ
)
かったということを知っているのみである。保さんの母
五百
(
いお
)
の話に、五郎作は
苦味走
(
にがみばし
)
った
好
(
よ
)
い男であったということであった。菓子商、
用達
(
ようたし
)
の外、この人は幕府の
連歌師
(
れんがし
)
の執筆をも勤めていた。
五郎作は実家が
江間氏
(
えまうじ
)
で、一時
長島
(
ながしま
)
氏を
冒
(
おか
)
し、真志屋の西村氏を
襲
(
つ
)
ぐに至った。名は
秋邦
(
しゅうほう
)
、
字
(
あざな
)
は
得入
(
とくにゅう
)
、
空華
(
くうげ
)
、
月所
(
げっしょ
)
、
如是縁庵
(
にょぜえんあん
)
等と号した。
平生
(
へいぜい
)
用いた
華押
(
かおう
)
は邦の字であった。
剃髪
(
ていはつ
)
して五郎作
新発智東陽院寿阿弥陀仏曇
(
しんぼっちとうよういんじゅあみだぶつどんちょう
)
と称した。曇とは好劇家たる五郎作が、
音
(
おん
)
の
似通
(
にかよ
)
った劇場の
緞帳
(
どんちょう
)
と、
入宋
(
にゅうそう
)
僧然
(
ちょうねん
)
の名などとを配合して作った
戯号
(
げごう
)
ではなかろうか。
五郎作は
劇神仙
(
げきしんせん
)
の号を
宝田寿来
(
たからだじゅらい
)
に
承
(
う
)
けて、後にこれを抽斎に伝えた人だそうである。
宝田寿来、通称は
金之助
(
きんのすけ
)
、一に
閑雅
(
かんが
)
と号した。『作者
店
(
たな
)
おろし』という書に、宝田とはもと神田より
出
(
い
)
でたる名と書いてあるのを見れば、
真
(
まこと
)
の
氏
(
うじ
)
ではなかったであろう。
浄瑠璃
(
じょうるり
)
『
関
(
せき
)
の
扉
(
と
)
』はこの人の作だそうである。寛政六年八月に、五十七歳で歿した。五郎作が二十六歳の時で、抽斎の生れる十一年前である。これが初代劇神仙である。
五郎作は歿年から推算するに、明和六年の
生
(
うまれ
)
で、抽斎の生れた文化二年には三十七歳になっていた。抽斎から見ての長幼の関係は、師迷庵や文晁におけると大差はない。嘉永元年八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽斎がこの二世劇神仙の
後
(
のち
)
を
襲
(
つ
)
いで三世劇神仙となったのは、四十四歳の時である。初め五郎作は抽斎の父
允成
(
ただしげ
)
と親しく
交
(
まじわ
)
っていたが、允成は五郎作に
先
(
さきだ
)
つこと十一年にして歿した。
五郎作は独り劇を
看
(
み
)
ることを好んだばかりではなく、舞台のために製作をしたこともある。四世
彦三郎
(
ひこさぶろう
)
を
贔屓
(
ひいき
)
にして、
所作事
(
しょさごと
)
を書いて遣ったと、自分でいっている。レシタションが
上手
(
じょうず
)
であったことは、同情のない
喜多村庭
(
きたむらいんてい
)
が、台帳を読むのが寿阿弥の唯一の長技だといったのを見ても察せられる。
五郎作は奇行はあったが、
生得
(
しょうとく
)
酒を
嗜
(
たし
)
まず、常に
養性
(
ようじょう
)
に意を用いていた。文政十年七月の
末
(
すえ
)
に、
姪
(
おい
)
の家の板の
間
(
ま
)
から
墜
(
お
)
ちて
怪我
(
けが
)
をして、当時流行した接骨家
元大坂町
(
もとおおさかちょう
)
の
名倉弥次兵衛
(
なぐらやじべえ
)
に診察してもらうと、名倉がこういったそうである。お前さんは
下戸
(
げこ
)
で、
戒行
(
かいぎょう
)
が堅固で、気が強い、それでこれほどの怪我をしたのに、目を
廻
(
まわ
)
さずに済んだ。この三つが一つ
闕
(
か
)
けていたら、目を廻しただろう。目を廻したのだと、療治に二百日
余
(
あまり
)
掛かるが、これは百五、六十日でなおるだろうといったそうである。戒行とは
剃髪
(
ていはつ
)
した
後
(
のち
)
だからいったものと見える。怪我は
両臂
(
りょうひじ
)
を傷めたので骨には
障
(
さわ
)
らなかったが
痛
(
いたみ
)
が久しく
息
(
や
)
まなかった。五郎作は十二月の末まで名倉へ通ったが、臂の
(
しびれ
)
だけは跡に
貽
(
のこ
)
った。五十九歳の時の事である。
五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄の筆を以てした。
技倆
(
ぎりょう
)
の上から言えば、必ずしも馬琴、京伝に譲らなかった。ただ小説を書かなかったので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙が
売
(
うり
)
に出たと聞いて、
大晦日
(
おおみそか
)
に
築地
(
つきじ
)
の弘文堂へ買いに往った。手紙は
罫紙
(
けいし
)
十二枚に
細字
(
さいじ
)
で書いたものである。文政十一年二月十九日に書いたということが、記事に拠って
明
(
あきら
)
かに考えられる。ここに書いた五郎作の性行も、
半
(
なかば
)
は材料をこの
簡牘
(
かんどく
)
に取ったものである。
宛名
(
あてな
)
の
堂
(
ひつどう
)
は
桑原氏
(
くわばらうじ
)
、名は
正瑞
(
せいずい
)
、
字
(
あざな
)
は
公圭
(
こうけい
)
、通称を
古作
(
こさく
)
といった。駿河国島田駅の素封家で、詩
及
(
および
)
書を善くした。玄孫
喜代平
(
きよへい
)
さんは島田駅の北半里ばかりの
伝心寺
(
でんしんじ
)
に住んでいる。五郎作の能文はこの手紙一つに徴して知ることが出来るのである。
その二十二
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||