その三十九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その三十九
五百
(
いお
)
は女中に書状を持たせて、ほど近い質屋へ
遣
(
や
)
った。即ち市野迷庵の跡の家である。
彼
(
か
)
の今に至るまで石に
彫
(
え
)
られずにある松崎
慊堂
(
こうどう
)
の文にいう如く、迷庵は柳原の店で亡くなった。その跡を
襲
(
つ
)
いだのは松太郎
光寿
(
こうじゅ
)
で、それが
三右衛門
(
さんえもん
)
の称をも継承した。迷庵の弟
光忠
(
こうちゅう
)
は別に
外神田
(
そとかんだ
)
に店を出した。これより
後
(
のち
)
内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立していて、彼は
世
(
よよ
)
三右衛門を称し、
此
(
これ
)
は
世
(
よよ
)
市三郎を称した。五百が書状を遣った市野屋は当時弁慶橋にあって、早くも光寿の子
光徳
(
こうとく
)
の代になっていた。光寿は迷庵の歿後
僅
(
わずか
)
に五年にして、天保三年に光徳を家督させた。光徳は
小字
(
おさなな
)
を
徳治郎
(
とくじろう
)
といったが、この時
更
(
あらた
)
めて三右衛門を
名告
(
なの
)
った。外神田の店はこの頃まだ迷庵の
姪
(
てつ
)
光長
(
こうちょう
)
の代であった。
ほどなく光徳の店の
手代
(
てだい
)
が来た。
五百
(
いお
)
は
箪笥
(
たんす
)
長持
(
ながもち
)
から二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸そうといった。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両を
借
(
か
)
ることが出来た。
三百両は建築の
費
(
ついえ
)
を弁ずるには
余
(
あまり
)
ある金であった。しかし
目見
(
めみえ
)
に伴う
飲贈遺
(
いんえんぞうい
)
一切の費は
莫大
(
ばくだい
)
であったので、五百は
終
(
つい
)
に
豊芥子
(
ほうかいし
)
に託して、
主
(
おも
)
なる
首飾
(
しゅしょく
)
類を売ってこれに
充
(
あ
)
てた。その状
当
(
まさ
)
に行うべき所を行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間に
挟
(
さしはさ
)
むことを得なかった。しかし中心には深くこれを徳とした。
抽斎の目見をした年の
閏
(
うるう
)
四月十五日に、長男
恒善
(
つねよし
)
は二十四歳で始て勤仕した。八月二十八日に五女
癸巳
(
きし
)
が生れた。当時の家族は主人四十五歳、
妻
(
さい
)
五百
(
いお
)
三十四歳、長男恒善二十四歳、次男
優善
(
やすよし
)
十五歳、四女
陸
(
くが
)
三歳、五女癸巳一歳の六人であった。長女
純
(
いと
)
は馬場氏に嫁し、三女
棠
(
とう
)
は山内氏を
襲
(
つ
)
ぎ、次女よし、三男八三郎、四男
幻香
(
げんこう
)
は亡くなっていたのである。
嘉永三年には、抽斎が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることとなった。藩禄等は
凡
(
すべ
)
て旧に
依
(
よ
)
るのである。八月
晦
(
かい
)
に、馬場氏に嫁していた純が二十歳で歿した。この年抽斎は四十六歳になった。
五百の仮親比良野文蔵の歿したのも、同じ年の四月二十四日である。次いで嗣子
貞固
(
さだかた
)
が目附から留守居に進んだ。津軽家の当時の職制より見れば、いわゆる
独礼
(
どくれい
)
の
班
(
はん
)
に加わったのである。独礼とは
式日
(
しきじつ
)
に藩主に謁するに当って、単独に進むものをいう。これより
下
(
しも
)
は
二人立
(
ににんだち
)
、三人立等となり、遂に
馬廻
(
うままわり
)
以下の一統礼に至るのである。
当時江戸に集っていた列藩の留守居は、
宛然
(
えんぜん
)
たるコオル・ヂプロマチックを
形
(
かたちづく
)
っていて、その生活は
頗
(
すこぶ
)
る特色のあるものであった。そして貞固の如きは、その光明面を体現していた人物といっても好かろう。
衣類を黒
紋附
(
もんつき
)
に限っていた
糸鬢奴
(
いとびんやっこ
)
の貞固は、
素
(
もと
)
より読書の人ではなかった。しかし書巻を
尊崇
(
そんそう
)
して、
提挈
(
ていけつ
)
をその
中
(
うち
)
に求めていたことを思えば、留守居中
稀有
(
けう
)
の人物であったのを知ることが出来る。貞固は留守居に任ぜられた日に、家に帰るとすぐに、
折簡
(
せっかん
)
して抽斎を
請
(
しょう
)
じた。そして
容
(
かたち
)
を改めていった。
「わたくしは
今日
(
こんにち
)
父の跡を襲いで、留守居役を
仰付
(
おおせつ
)
けられました。今までとは違った
心掛
(
こころがけ
)
がなくてはならぬ役目と存ぜられます。実はそれに
用立
(
ようだ
)
つお講釈が承わりたさに、御足労を願いました。あの四方に
使
(
つかい
)
して君命を
辱
(
はずかし
)
めずということがございましたね。あれを一つお講じ下さいますまいか。」
「先ず何よりもおよろこびを言わんではなるまい。さて講釈の事だが、これはまた至極のお
思附
(
おもいつき
)
だ。委細承知しました」と抽斎は
快
(
こころよ
)
く諾した。
その三十九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||