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その五十七
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その五十七

 迷庵の考証学が 奈何 いか なるものかということは、『読書指南』について見るべきである。しかしその要旨は自序一篇に尽されている。迷庵はこういった。「 孔子 こうし 堯舜 ぎょうしゅん 三代の道を述べて、 その 流義を立て たま へり。堯舜より以下を取れるは、其事の あきらか に伝はれる所なればなり。されども春秋の ころ にいたりて、世変り時 うつ りて、其道一向に用ゐられず。孔子も つては見給へども、遂に行かず。 つい かえ り、六経を修めて後世に伝へらる。これその堯舜三代の道を認めたまふゆゑなり。儒者は孔子をまもりて其経を修むるものなり。故に儒者の道を学ばむと思はゞ、先づ文字を 精出 せいだ して覚ゆるがよし。次に 九経 きゅうけい をよく読むべし。漢儒の注解はみな いにしえ より伝受あり。自分の 臆説 おくせつ をまじへず。故に伝来を守るが儒者第一の仕事なり。(中略)宋の時 程頤 ていい 朱熹 しゅき おの が学を建てしより、近来 伊藤源佐 いとうげんさ 荻生惣右衛門 おぎゅうそうえもん などと ふやから、みな おのれ の学を学とし、是非を争ひてやまず。世の儒者みな 真闇 まっくら になりてわからず。余も また わか かりしより この 事を学びしが、迷ひてわからざりし。ふと解する所あり。学令の むね にしたがひて、それ/″\の古書をよむがよしと思へり」といった。
 要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証に って至るより外ないと信じたのである。 もと よりこれは 捷径 しょうけい ではない。迷庵が精出して文字を覚えるといい、抽斎が小学に熟練するといっているこの事業は、これがために 一人 いちにん の生涯を ついや すかも知れない。幾多のジェネラションのこの間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものがないとすると、学者は ここ に従事せずにはいられぬのである。
 然らば学者は考証中に没頭して、修養に いとま がなくなりはせぬか。いや。そうではない。考証は考証である。修養は修養である。学者は考証の長途を歩みつつ、不断の修養をなすことが出来る。
 抽斎はそれをこう考えている。百家の書に読まないで いものはない。十三 ぎょう といい、九経といい、六経という。 なら べ方はどうでも好いが、 秦火 しんか かれた 楽経 がくけい は除くとして、これだけは読破しなくてはならない。しかしこれを読破した上は、大いに功を省くことが出来る。「聖人の道と 事々 ことごと しく へども、前に云へる如く、六経を読破したる上にては、論語、老子の二書にて事足るなり。其中にも 過猶不及 すぎたるはなおおよばざるがごとし 身行 しんこう の要とし、 無為不言 ぶいふげん を心術の おきて となす。此二書をさへ く守ればすむ事なり」というのである。
 抽斎は 百尺竿頭 ひゃくせきかんとう 更に一歩を進めてこういっている。「 ただし 論語の内には取捨すべき所あり。 王充 おうじゅう しょ 問孔篇 もんこうへん 及迷庵師の論語数条を論じたる書あり。皆参考すべし」といっている。王充のいわゆる「 夫聖賢下筆造文 それせいけんのふでをくだしぶんをつくるや 用意詳審 いをもちいてくわしくつまびらかにするも 尚未可謂尽得実 なおいまだことごとくはじつをうというべからず 況倉卒吐言 いわんやそうそつのとげん 安能皆是 いずくんぞよくみなぜならんや 」という見識である。
 抽斎が『老子』を以て『論語』と並称するのも、師迷庵の説に本づいている。「天は 蒼々 そうそう として かみ にあり。人は 両間 りょうかん に生れて性皆相近し。 ならい 相遠きなり。世の始より性なきの人なし。習なきの俗なし。世界万国皆其国々の習ありて同じからず。其習は本性の如く人にしみ附きて離れず。老子は自然と説く。 これ 。孔子 いわく 述而不作 のべてつくらず 信而好古 しんじていにしえをこのむ 窃比我於老彭 ひそかにわれをろうほうにひす 。かく 宣給 のたも ふときは、孔子の意も また 自然に相近し」といったのが即ちこれである。