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その八十八
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その八十八

  何故 なにゆえ に儒を以て仕えている成善に、医者降等の令を適用したかというに、それは想像するに難くはない。渋江氏は よよ 儒を兼ねて、命を受けて けい を講じてはいたが、家は もと 医道の家である。成善に至っても、幼い時から多紀安琢の門に っていた。また すで に弘前に来た のち も、医官 北岡太淳 きたおかたいじゅん 手塚元瑞 てづかげんずい 今春碩 いまはるせき らは成善に兼て医を以て仕えんことを勧め、こういう事を言った。「弘前には少壮者中に中村 春台 しゅんたい 三上道春 みかみどうしゅん 、北岡 有格 ゆうかく 小野圭庵 おのけいあん の如きものがある。その他 小山内元洋 おさないげんよう のように あらた に召し抱えられたものもある。しかし江戸 定府 じょうふ 出身の わか い医者がない。ちと医業の方をも 出精 しゅっせい してはどうだ」といった。かつ令の発せられる少し前の出来事で、成善が津軽 承昭 つぐてる に医として遇せられていた証拠がある。六月十三日に、藩知事承昭は たたかい 大星場 おおほしば に習わせた。承昭は五月二十六日に知事になっていたのである。銃声の盛んに起った時、第五大隊の医官小野道秀が病を発した。承昭は かたわら に侍した成善をして小野に代らしめた。 かく の如く渋江氏の子が医を善くすることは、 上下 じょうか 皆信じていたと見える。しかしこれがために、現に儒を以て仕えているものを不幸に陥いれたのは、同情が けていたといっても かろう。
 矢島 優善 やすよし は前年の暮に 失踪 しっそう して、渋江氏では 疑懼 ぎく の間に年を送った。この年 一月 いちげつ 二日の午後に、石川駅の人が二通の手紙を持って来た。優善が家を出た日に書いたもので、一は 五百 いお て、一は成善に宛ててある。 ならび 訣別 けつべつ の書で、 所々 しょしょ 涙痕 るいこん いん している。石川は弘前を ること一里半を過ぎぬ駅であるが、使のものは命ぜられたとおりに、優善が駅を去った のち に手紙を届けたのである。
 五百と成善とは、優善が雪中に行き悩みはせぬか、病み しはせぬかと 気遣 きづか って、再び人を やと って捜索させた。成善は自ら雪を冒して、石川、 大鰐 おおわに 倉立 くらだて 碇関 いかりぜき 等を くま なく尋ねた。しかし 蹤跡 しょうせき たえ て知れなかった。
 優善は東京をさして石川駅を発し、この年一月二十一日に吉原の引手茶屋 湊屋 みなとや いた。湊屋の かみ さんは大分年を取った女で、常に優善を「 ちょう さん」と呼んで したし んでいた。優善はこの女をたよって往ったのである。
 湊屋に みな という娘がいた。このみいちゃんは美しいので、茶屋の 呼物 よびもの になっていた。みいちゃんは 津藤 つとう に縁故があるとかいう 河野 こうの 某を 檀那 だんな に取っていたが、河野は遂にみいちゃんを めと って、優善が東京に著いた時には、 今戸橋 いまどばし ほとり に芸者屋を出していた。屋号は同じ湊屋である。
 優善は吉原の湊屋の世話で、 山谷堀 さんやぼり の箱屋になり、 おも に今戸橋の湊屋で抱えている芸者らの供をした。
 四カ月半ばかりの後、或人の世話で、優善は本所緑町の安田という 骨董店 こっとうてん 入贅 にゅうぜい した。安田の家では主人 礼助 れいすけ が死んで、 未亡人 びぼうじん まさ が寡居していたのである。しかし優善の骨董商時代は箱屋時代より短かった。それは政が優善の妻になって間もなくみまかったからである。
 この頃 さき に浦和県の官吏となった塩田 良三 りょうさん が、 権大属 ごんだいさかん のぼ って 聴訟係 ていしょうがかり をしていたが、優善を県令に すす めた。優善は八月十八日を以て浦和県出仕を命ぜられ、典獄になった。時に年三十六であった。