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その四十四
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その四十四

 日本の古医書は『 続群書類従 ぞくぐんしょるいじゅう 』に収めてある 和気広世 わけひろよ の『 薬経太素 やくけいたいそ 』、 丹波康頼 たんばのやすより の『 康頼本草 やすよりほんぞう 』、 釈蓮基 しゃくれんき の『 長生 ちょうせい 療養方』、次に多紀家で校刻した 深根輔仁 ふかねすけひと の『 本草和名 ほんぞうわみょう 』、丹波 雅忠 まさただ の『医略抄』、宝永中に 印行 いんこう せられた 具平親王 ともひらしんのう の『 弘決外典抄 ぐけつげてんしょう 』の数種を存するに過ぎない。具平親王の書は もと 字類に属して、 ここ に算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、 出雲広貞 いずもひろさだ らの たてまつ った『 大同類聚方 だいどうるいじゅほう 』の如きは、 散佚 さんいつ して世に伝わらない。
 それゆえ天元五年に成って、 永観 えいかん 二年に たてまつ られた『医心方』が、 ほとん ど九百年の後の世に でたのを見て、学者が血を き立たせたのも あやし むに足らない。
『医心方』は 禁闕 きんけつ の秘本であった。それを 正親町 おおぎまち 天皇が いだ して 典薬頭 てんやくのかみ 半井 なからい 通仙院 つうせんいん 瑞策 ずいさく に賜わった。それからは よよ 半井氏が護持していた。徳川幕府では、寛政の はじめ に、 仁和寺 にんなじ 文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡が きわめ て多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。然るに当時半井 大和守成美 やまとのかみせいび は献ずることを がえん ぜず、その子 修理大夫 しゅりのだいぶ 清雅 せいが もまた献ぜず、 つい に清雅の子出雲守 広明 ひろあき に至った。
 半井氏が初め なに ことば を以て命を拒んだかは、これを つまびらか にすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都において焼失したといった。天明八年の火事とは、正月 みそか 洛東団栗辻 らくとうどんぐりつじ から起って、全都を 灰燼 かいじん に化せしめたものをいうのである。幕府はこの答に満足せずに、 似寄 により の品でも いから出せと 誅求 ちゅうきゅう した。 おそら くは情を知って強要したのであろう。
 半井広明はやむことをえず、こういう 口上 こうじょう を以て『医心方』を出した。 外題 げだい は同じであるが、筆者 区々 まちまち になっていて、誤脱多く、 はなは だ疑わしき そかん である。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供するというのである。書籍は広明の手から 六郷 ろくごう 筑前守 政殷 まさただ の手にわたって、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持って往った。正弘は 公用人 こうようにん 渡辺三太平 わたなべさんたへい を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
 越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守 胤統 たねのり を以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用は 金蔵 かねぐら から渡されるであろう。書籍は とく と取調べ、かつ刻本 売下 うりさげ 代金を以て費用を返納すべき 積年賦 せきねんぷ をも取調べるようにということであった。
  半井 なからい 広明の呈した本は三十巻三十一冊で、 けんの 二十五に上下がある。 こまか に検するに期待に そむ かぬ善本であった。 もと 『医心方』は 巣元方 そうげんぼう の『 病源候論 びょうげんこうろん 』を けい とし、 隋唐 ずいとう の方書百余家を として作ったもので、その引用する所にして、支那において 佚亡 いつぼう したものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
 幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁 二人 ににん 、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀 安良 あんりょう 法眼 ほうげん である。楽真院は さいてい 、安良は 暁湖 ぎょうこ で、 ならび に二百俵の奥医師であるが、彼は法印、 これ は法眼になっていて、当時 くら の分家が 向柳原 むこうやなぎはら の宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。
 躋寿館では『医心方』 影写程式 えいしゃていしき というものが出来た。写生は 毎朝辰刻 まいちょうたつのこく に登館して、 一人一日 いちにんいちじつ けつ を影模する。三頁を模し おわ れば、任意に退出することを許す。三頁を模すること あた わざるものは、二頁を模し畢って退出しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月 さく に起って、二十日に終る。日に二頁を模するものは みそか に至る。この間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。