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その十一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その十一

允成 ただしげ は才子で 美丈夫 びじょうふ であった。安永七年三月 さく に十五歳で渋江氏に養われて、当時 儲君 ちょくん であった、二つの年上の出羽守 信明 のぶあきら に愛せられた。養父 本皓 ほんこう の五十八歳で亡くなったのが、天明四年二月二十九日で、信明の 襲封 しゅうほう と同日である。信明はもう土佐守と称していた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。
 寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に 和三郎 わさぶろう 寧親 やすちか が支封から って宗家を継いだ。後に越中守と称した人である。寧親は時に二十七歳で、允成は一つ上の二十八歳である。允成は寧親にも 親昵 しんじつ して、 ほとん 兄弟 けいてい の如くに遇せられた。 平生 へいぜい 着丈 きだけ 四尺の て、体重が二十貫目あったというから、その堂々たる 相貌 そうぼう が思い遣られる。
 当時津軽家に 静江 しずえ という 女小姓 おんなごしょう が勤めていた。それが年老いての後に剃髪して 妙了尼 みょうりょうに と号した。妙了尼が渋江家に 寄寓 きぐう していた頃、 可笑 おか しい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中たちが争ってその 茶碗 ちゃわん の底の 余瀝 よれき を指に けて ねぶ るので、自分も舐ったというのである。
 しかし允成は謹厳な人で、 女色 じょしょく などは顧みなかった。最初の妻田中氏は寛政元年八月二十二日に めと ったが、これには子がなくて、翌年四月十三日に亡くなった。次に寛政三年六月四日に、 寄合 よりあい 戸田政五郎 とだまさごろう 家来 納戸役 なんどやく 金七両十二人扶持 川崎丈助 かわさきじょうすけ むすめ を迎えたが、これは四年二月に いつ という むすめ を生んで、逸が三歳で 夭折 ようせつ した翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の れた しつ は、 下総国 しもうさのくに 佐倉 さくら の城主 堀田 ほった 相模守 さがみのかみ 正順 まさより の臣、 岩田忠次 いわたちゅうじ の妹 ぬい で、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
 縫は享和二年に始めて 須磨 すま という むすめ を生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、 留守居 るすい 年寄 としより 佐野 さの 豊前守 ぶぜんのかみ 政親 まさちか 飯田四郎左衛門 いいだしろうざえもん 良清 よしきよ に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これから のち には文化八年 じゅん 二月十四日に むすめ が生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなった。 感応寺 かんのうじ の墓に 曇華 どんげ 水子 すいし と刻してあるのがこの むすめ 法諡 ほうし である。
  允成 ただしげ は寧親の侍医で、津軽藩邸に催される 月並 つきなみ 講釈の教官を兼ね、 経学 けいがく と医学とを藩の子弟に授けていた。三百石十人扶持の 世禄 せいろく の外に、寛政十二年から 勤料 つとめりょう 五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加え、八年にまた五人扶持を加えられて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。 なか 二年置いて文化十一年に 一粒金丹 いちりゅうきんたん を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で、 毎月 まいげつ 百両以上の所得になったのである。
 允成は 表向 おもてむき 侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任を こうむ ることが厚かったので、人の あえ て言わざる事をも言うようになっていて、 しばしば いさ めて しばしば かれた。寧親は文化元年五月連年 蝦夷地 えぞち の防備に任じたという かど を以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。いわゆる津軽家の 御乗出 おんのりだし がこれである。五年十二月には 南部 なんぶ 家と共に永く東西蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、 じゅ 四位 に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当って、允成が 啓沃 けいよく の功も少くなかったらしい。
 允成は文政五年八月 さく に、五十九歳で致仕した。抽斎が十八歳の時である。次いで寧親も八年四月に退隠して、詩歌 俳諧を銷遣 しょうけん の具とし、歌会には 成島司直 なるしましちょく などを召し、詩会には允成を召すことになっていた。允成は 天保 てんぽう 二年六月からは、出羽国 亀田 かめだ の城主 岩城 いわき 伊予守 いよのかみ 隆喜 たかひろ に嫁した 信順 のぶゆき の姉もと姫に伺候し、同年八月からはまた信順の室 欽姫附 かねひめづき を兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになったのは、これらのためであろう。中一年置いて四年四月朔に、隠居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。
 允成は天保八年

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[#「八年」は底本では「八月」]
十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻 ぬい は、文政七年七月朔に剃髪して 寿松 じゅしょう といい、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなった。夫に さきだ つこと八年である。