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その六十五
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その六十五

 抽斎は 平姓 へいせい で、 小字 おさなな 恒吉 つねきち といった。人と成った のち の名は 全善 かねよし あざな 道純 どうじゅん 、また 子良 しりょう である。そして道純を以て通称とした。その号抽斎の抽字は、 もと ちゅう

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[#「竹かんむり/(てへん+(澑−さんずい))」、192-1]
に作った。 ちゅう
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[#「竹かんむり/(てへん+(澑−さんずい))」、192-1]
、※
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[#「てへん+(澑−さんずい)」、192-1]
、抽の三字は皆相通ずるのである。抽斎の 手沢本 しゅたくぼん には※
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[#「竹かんむり/(てへん+(澑−さんずい))」、192-2]
斎校正の 篆印 てんいん ほとん ど必ず してある。
 別号には観柳書屋、 柳原 りゅうげん 書屋、 三亦堂 さんえきどう 目耕肘 もくこうちゅう 書斎、 今未是翁 こんみぜおう 不求甚解 ふきゅうじんかい 翁等がある。その三世 劇神仙 げきしんせん と称したことは、既にいったとおりである。
 抽斎はかつて自ら 法諡 ほうし を撰んだ。 容安院 ようあんいん 不求甚解居士 ふきゅうじんかいこじ というのである。この 字面 じめん は妙ならずとはいいがたいが、余りに抽象的である。これに反して抽斎が妻 五百 いお のために撰んだ法諡は妙 きわ まっている。 半千院 はんせんいん 出藍終葛大姉 しゅつらんしゅうかつだいし というのである。半千は五百、出藍は 紺屋町 こんやちょう に生れたこと、終葛は 葛飾郡 かつしかごおり で死ぬることである。しかし 世事 せいじ の転変は 逆覩 げきと すべからざるもので、五百は 本所 ほんじょ で死ぬることを得なかった。
 この二つの法諡はいずれも石に られなかった。抽斎の墓には海保漁村の文を刻した碑が立てられ、また五百の遺骸は抽斎の 墓穴 ぼけつ に合葬せられたからである。
 大抵伝記はその人の死を以て終るを例とする。しかし古人を 景仰 けいこう するものは、その 苗裔 びょうえい がどうなったかということを問わずにはいられない。そこでわたくしは既に抽斎の生涯を しる おわ ったが、なお筆を投ずるに忍びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆきを、これより しも に書き附けて置こうと思う。
 わたくしはこの記事を作るに 許多 あまた 障礙 しょうがい のあることを自覚する。それは現存の人に言い及ぼすことが ようや く多くなるに従って、 忌諱 きき すべき事に 撞着 とうちゃく することもまた漸く しきり なることを免れぬからである。この障礙は かみ に抽斎の経歴を叙して、その安政中の末路に近づいた時、早く既に こうべ もたげ げて来た。これから のち は、これが いよいよ 筆端に 纏繞 てんじょう して、 いと うべき拘束を加えようとするであろう。しかしわたくしはよしや多少の困難があるにしても、書かんと欲する事だけは書いて、この稿を まっと うするつもりである。
 渋江の家には抽斎の歿後に、既にいうように、未亡人五百、 くが 水木 みき 、専六、 翠暫 すいざん 、嗣子 成善 しげよし と矢島氏を冒した 優善 やすよし とが遺っていた。十月 さく わずか に二歳で家督相続をした成善と、他の五人の子との世話をして、 一家 いっか の生計を立てて行かなくてはならぬのは、四十三歳の五百であった。
 遺子六人の中で差当り問題になっていたのは、矢島優善の身の上である。優善は 不行跡 ふぎょうせき のために、二年 ぜん に表医者から小普請医者に へん せられ、一年 ぜん に表医者 すけ に復し、父を喪う年の二月に わずか もと の表医者に復することが出来たのである。
 しかし当時の優善の態度には、まだ真に 改悛 かいしゅん したものとは 看做 みな しにくい所があった。そこで 五百 いお 旦暮 たんぼ 周密にその挙動を監視しなくてはならなかった。
 残る五人の子の うち で、十二歳の陸、六歳の水木、五歳の専六はもう読書、習字を始めていた。陸や水木には、五百が自ら 句読 くとう を授け、 手跡 しゅせき は手を って書かせた。専六は近隣の 杉四郎 すぎしろう という学究の もと へ通っていたが、これも五百が復習させることに骨を折った。また専六の手本は平井東堂が書いたが、これも五百が臨書だけは手を把って書かせた。 午餐後 ごさんご 日の暮れかかるまでは、五百は子供の 背後 うしろ に立って 手習 てならい の世話をしたのである。