その六十一
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その六十一
刀の
(
つか
)
に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の
端
(
はし
)
近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を
斜
(
ななめ
)
に
見遣
(
みや
)
った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
五百は
僅
(
わずか
)
に
腰巻
(
こしまき
)
一つ身に
著
(
つ
)
けたばかりの裸体であった。口には懐剣を
銜
(
くわ
)
えていた。そして
閾際
(
しきいぎわ
)
に身を
屈
(
かが
)
めて、縁側に置いた
小桶
(
こおけ
)
二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは
湯気
(
ゆげ
)
が立ち
升
(
のぼ
)
っている。
縁側
(
えんがわ
)
を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。
五百は小桶を持ったまま、つと
一間
(
ひとま
)
に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を
把
(
と
)
って
鞘
(
さや
)
を払った。そして
床
(
とこ
)
の
間
(
ま
)
を背にして立った一人の客を
睨
(
にら
)
んで、「どろぼう」と一声叫んだ。
熱湯を浴びた
二人
(
ふたり
)
が先に、
(
つか
)
に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。
五百は仲間や諸生の名を呼んで、「どろぼう/\」という声をその間に挟んだ。しかし家に居合せた男らの
馳
(
は
)
せ集るまでには、三人の客は皆逃げてしまった。この時の事は
後々
(
のちのち
)
まで渋江の家の一つ話になっていたが、五百は人のその功を称するごとに、
慙
(
は
)
じて席を
遁
(
のが
)
れたそうである。五百は幼くて武家奉公をしはじめた時から、
匕首
(
ひしゅ
)
一口
(
いっこう
)
だけは身を放さずに持っていたので、
湯殿
(
ゆどの
)
に脱ぎ棄てた衣類の
傍
(
そば
)
から、それを取り上げることは出来たが、衣類を身に
纏
(
まと
)
う
遑
(
いとま
)
はなかったのである。
翌朝
(
よくちょう
)
五百は金を貴人の
許
(
もと
)
に持って往った。手島の
言
(
こと
)
によれば、これは献金としては受けられぬ、唯
借上
(
かりあげ
)
になるのであるから、十カ年賦で返済するということであった。しかし手島が渋江氏を
訪
(
と
)
うて、お
手元
(
てもと
)
不如意
(
ふにょい
)
のために、
今年
(
こんねん
)
は返金せられぬということが数度あって、維新の年に至るまでに、還された金は
些
(
すこし
)
ばかりであった。保さんが金を受け取りに往ったこともあるそうである。
この一条は保さんもこれを語ることを
躊躇
(
ちゅうちょ
)
し、わたくしもこれを書くことを躊躇した。しかし抽斎の
誠心
(
まごころ
)
をも、五百の勇気をも、かくまで
明
(
あきらか
)
に見ることの出来る事実を
湮滅
(
いんめつ
)
せしむるには忍びない。ましてや貴人は今は世に亡き
御方
(
おんかた
)
である。あからさまにその人を
斥
(
さ
)
さずに、ほぼその事を
記
(
しる
)
すのは、あるいは
妨
(
さまたげ
)
がなかろうか。わたくしはこう
思惟
(
しゆい
)
して、抽斎の勤王を説くに当って、遂にこの事に言い及んだ。
抽斎は勤王家ではあったが、攘夷家ではなかった。初め抽斎は西洋
嫌
(
ぎらい
)
で、攘夷に耳を
傾
(
かたぶ
)
けかねぬ人であったが、前にいったとおりに、
安積艮斎
(
あさかごんさい
)
の書を読んで悟る所があった。そして
窃
(
ひそか
)
に漢訳の博物窮理の書を
閲
(
けみ
)
し、ますます洋学の廃すべからざることを知った。当時の洋学は主に蘭学であった。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したのはこれがためである。
抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去ったのである。この公認を
贏
(
か
)
ち得るまでには、蘭法医は社会において奮闘した。そして彼らの攻撃の衝に当ったものは漢法医である。その応戦の跡は『漢蘭酒話』、『
一夕
(
いっせき
)
医話』等の如き書に徴して知ることが出来る。抽斎は
敢
(
あえ
)
て
言
(
げん
)
をその間に
挟
(
さしはさ
)
まなかったが、心中これがために憂え
悶
(
もだ
)
えたことは、想像するに難からぬのである。
その六十一
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||