その八十三
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その八十三
渋江氏の若党の一人中条勝次郎は、弘前に来てから思いも掛けぬ事に遭遇した。
一行が土手町に下宿した後
二
(
に
)
、
三月
(
さんげつ
)
にして暴風雨があった。弘前の人は暴風雨を岩木山の神が
崇
(
たたり
)
を
作
(
な
)
すのだと信じている。神は他郷の人が来て土着するのを
悪
(
にく
)
んで、暴風雨を起すというのである。この故に弘前の人は他郷の人を排斥する。
就中
(
なかんずく
)
丹後
(
たんご
)
の人と南部の人とを嫌う。なぜ丹後の人を嫌うかというに、岩木山の神は古伝説の
安寿姫
(
あんじゅひめ
)
で、
己
(
おのれ
)
を虐使した
山椒大夫
(
さんしょうたゆう
)
の郷人を嫌うのだそうである。また南部の人を嫌うのは、神も津軽人のパルチキュラリスムに感化せられているのかも知れない。
暴風雨の
後
(
のち
)
数日にして、新に江戸から
徙
(
うつ
)
った家々に
沙汰
(
さた
)
があった。もし丹後、南部等の
生
(
うまれ
)
のものが
紛
(
まぎ
)
れ
入
(
い
)
っているなら、厳重に取り
糺
(
ただ
)
して国境の外に
逐
(
お
)
えというのである。渋江氏の一行では中条が他郷のものとして
目指
(
めざ
)
された。中条は
常陸
(
ひたち
)
生だといって申し
解
(
と
)
いたが、役人は
生国
(
しょうこく
)
不明と認めて、それに
立退
(
たちのき
)
を
諭
(
さと
)
した。五百はやむことをえず、中条に路用の金を与えて江戸へ還らせた。
冬になってから渋江氏は
富田新町
(
とみたしんまち
)
の家に
遷
(
うつ
)
ることになった。そして
知行
(
ちぎょう
)
は当分の内六分
引
(
びけ
)
を以て給するという達しがあって、実は宿料食料の
外
(
ほか
)
何の給与もなかった。これが
後
(
のち
)
二年にして
秩禄
(
ちつろく
)
に大削減を加えられる
発端
(
ほったん
)
であった。二年
前
(
ぜん
)
から逐次に江戸を引き上げて来た
定府
(
じょうふ
)
の人たちは、富田新町、
新寺町
(
しんてらまち
)
新割町
(
しんわりちょう
)
、
上白銀町
(
かみしろかねちょう
)
、
下
(
しも
)
白銀町、
塩分町
(
しおわけちょう
)
、
茶畑町
(
ちゃばたちょう
)
の六カ所に分れ住んだ。富田新町には
江戸子町
(
えどこまち
)
、新寺町新割町には
大矢場
(
おおやば
)
、上白銀町には新屋敷の異名がある。富田新町には渋江氏の外、矢川文一郎、浅越玄隆らがおり、新寺町新割町には比良野
貞固
(
さだかた
)
、中村勇左衛門らがおり、下白銀町には矢川文内らがおり、塩分町には平井東堂らがおった。
この頃五百は専六が
就学
(
じゅがく
)
問題のために
思
(
おもい
)
を労した。専六の性質は成善とは違う。成善は書を読むに人の催促を
須
(
ま
)
たない。そしてその読む所の書は自ら択ぶに任せることが出来る。それゆえ五百は彼が兼松石居に従って経史を
攻
(
おさ
)
めるのを見て、
毫
(
ごう
)
も
容喙
(
ようかい
)
せずにいた。成善が儒となるもまた可、医となるもまた不可なるなしとおもったのである。これに反して専六は多く書を読むことを好まない。書に対すれば、先ず有用無用の
詮議
(
せんぎ
)
をする。五百はこの子には儒となるべき素質がないと信じた。そこで意を決して剃髪せしめた。
五百は弘前の城下について、専六が師となすべき医家を物色した。そして
親方町
(
おやかたちょう
)
に住んでいる近習医者
小野元秀
(
おのげんしゅう
)
を
獲
(
え
)
た。
その八十三
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