その百五
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その百五
この年十二月二日に
優
(
ゆたか
)
が本所相生町の家に歿した。優は職を
罷
(
や
)
める時から心臓に故障があって、東京に還って
清川玄道
(
きよかわげんどう
)
の治療を受けていたが、屋内に静坐していれば別に苦悩もなかった。歿する日には朝から物を書いていて、
午頃
(
ひるごろ
)
「ああ
草臥
(
くたび
)
れた」といって
仰臥
(
ぎょうが
)
したが、それきり
起
(
た
)
たなかった。岡西氏
徳
(
とく
)
の生んだ、抽斎の次男は
此
(
かく
)
の如くにして世を去ったのである。優は四十九歳になっていた。子はない。遺骸は感応寺に葬られた。
優は
蕩子
(
とうし
)
であった。しかし
後
(
のち
)
に身を吏籍に置いてからは、微官におったにもかかわらず、
頗
(
すこぶ
)
る
材能
(
さいのう
)
を
見
(
あらわ
)
した。優は
情誼
(
じょうぎ
)
に厚かった。
親戚
(
しんせき
)
朋友
(
ほうゆう
)
のその恩恵を被ったことは甚だ多い。優は
筆札
(
ひっさつ
)
を善くした。その書には小島成斎の風があった。その他演劇の事はこの人の最も精通する所であった。新聞紙の劇評の如きは、森
枳園
(
きえん
)
と優とを開拓者の
中
(
うち
)
に算すべきであろう。大正五年に珍書刊行会で公にした『劇界珍話』は
飛蝶
(
ひちょう
)
の名が署してあるが、優の未定稿である。
抽斎歿後の第二十六年は明治十七年である。二月十四日に五百が烏森の家に歿した。年六十九であった。
五百は
平生
(
へいぜい
)
病むことが
少
(
すくな
)
かった。抽斎歿後に一たび眼病に
罹
(
かか
)
り、
時々
(
じじ
)
疝痛
(
せんつう
)
を
患
(
うれ
)
えた位のものである。特に明治九年還暦の
後
(
のち
)
は、
殆
(
ほとん
)
ど無病の人となっていた。然るに前年の八月中、保が家に帰らぬを
患
(
うれ
)
えて絶食した頃から、やや心身違和の徴があった。保らはこれがために憂慮した。さて新年に
入
(
い
)
って見ると、五百の健康状態は
好
(
よ
)
くなった。保は二月九日の
夜
(
よ
)
母が
天麩羅蕎麦
(
てんぷらそば
)
を食べて
炬燵
(
こたつ
)
に当り、史を談じて
更
(
こう
)
の
闌
(
たけなわ
)
なるに至ったことを記憶している。また翌十日にも
午食
(
ごしょく
)
に蕎麦を食べたことを記憶している。午後三時頃五百は煙草を買いに出た。二、三年
前
(
ぜん
)
からは子らの
諌
(
いさめ
)
を
納
(
い
)
れて、単身戸外に出ぬことにしていたが、当時の家から煙草
店
(
みせ
)
へ往く道は、烏森神社の境内であって車も通らぬゆえ、煙草を買いにだけは単身で往った。保は自分の部屋で書を読んで、これを知らずにいた。
暫
(
しばら
)
くして五百は烟草を買って帰って、保の
背後
(
うしろ
)
に立って話をし出した。保はかつ読みかつ答えた。
初
(
はじめ
)
てドイツ語を学ぶ頃で、読んでいる書はシェッフェルの文典であった。保は母の気息の促迫しているのに気が附いて、「おっ
母
(
か
)
様、大そうせかせかしますね」といった。
「ああ年のせいだろう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はこういったが、やはり話を
罷
(
や
)
めずにいた。
少し立って五百は突然黙った。
「おっ母様、どうかなすったのですか。」保はこういって
背後
(
うしろ
)
を顧みた。
五百は火鉢の前に坐って、やや首を
傾
(
かたぶ
)
けていたが、保はその姿勢の常に異なるのに気が附いて、急に
起
(
た
)
って
傍
(
かたわら
)
に往き顔を
覗
(
のぞ
)
いた。
五百の目は直視し、
口角
(
こうかく
)
からは
涎
(
よだれ
)
が流れていた。
保は「おっ母様、おっ母様」と呼んだ。
五百は「ああ」と一声答えたが、人事を
省
(
せい
)
せざるものの如くであった。
保は床を敷いて母を寝させ、自ら医師の
許
(
もと
)
へ走った。
その百五
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