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その九十
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その九十

 抽斎歿後の第十三年は明治四年である。 成善 しげよし は母を弘前に のこ して、単身東京に くことに決心した。その東京に往こうとするのは、一には降等に って不平に堪えなかったからである。二には減禄の のち は旧に って生計を立てて行くことが出来ぬからである。その母を弘前に遺すのは、脱藩の うたがい を避けんがためである。
 弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌わなかった。これに反して私費を以て東京に往こうとするものがあると、藩は すで にその人の脱藩を疑った。いわんや家族をさえ伴おうとすると、この疑は ますます 深くなるのであった。
 成善が東京に往こうと思っているのは久しい事で、しばしばこれを師 兼松石居 かねまつせききょ はか った。石居は機を見て成善を官費生たらしめようと誓った。しかし成善は今は しずか にこれを待つことが出来なくなったのである。
 さて成善は私費を以て往くことを あえ てするのであるが、なお母だけは遺して置くことにした。これはやむことをえぬからである。 何故 なにゆえ というに、もし成善が母と とも に往こうといったなら、藩は放ち遣ることを ゆる さなかったであろう。
 成善は母に約するに、他日東京に迎え取るべきことを以てした。しかし藩の必ずこれを 阻格 そかく すべきことは、母子皆これを知っていた。 つづ めて言えば、弘前を去る成善には母を とするに似た うらみ があった。
 藩が脱籍者の輩出せんことを恐るるに至ったのは、二、三の忌むべき実例があったからである。その しゅ におるものは、 の勘定奉行を めて米穀商となった平川半治である。当時 かく の如く財利のために士籍を のが れようとする気風があったことは、渋江氏もまた親しくこれを験することを得た。或人は 五百 いお に説いて、東京両国の中村楼を買わせようとした。今千両の金を投じて買って置いたなら、他日 鉅万 きょまん とみ を致すことが出来ようといったのである。或人は東京神田 須田町 すだちょう の某売薬株を買わせようとした。この株は今廉価を以て あがな うことが出来て、即日から月収三百両 乃至 ないし 五百両の利があるといったのである。五百のこれに耳を さなかったことは もと よりである。
 当時藩職におって、津軽家をして士を失わざらしめんと欲し、極力脱籍を防いだのは、大参事 西館孤清 にしだてこせい である。成善は西館を うて、東京に往くことを告げた。西館はおおよそこういった。東京に往くは い。学業成就して弘前に帰るなら、我らはこれを任用することを おし まぬであろう。しかし半途にして母を迎え取らんとするが如きことがあったなら、それは郷土のために謀って忠ならざることを証するものである。我藩はこれを許さぬであろうといった。成善は悲痛の情を抑えて西館の もと を辞した。
 成善は家禄を いて、その五人扶持を東京に送致してもらうことを、当路の人に請うて ゆる された。それから長持 一棹 ひとさお の錦絵を書画兼骨董商 近竹 きんたけ に売った。これは浅草 蔵前 くらまえ 兎桂 とけい 等で、二十枚百文位で買った絵であるが、当時三枚二百文 乃至 ないし 一枚百文で売ることが出来た。成善はこの金を得て、 なかば とど めて母に おく り、半はこれを旅費と学資とに てた。
 成善が弘前で 暇乞 いとまごい に廻った家々の中で、最も わかれ おし んだのは兼松石居と平井東堂とであった。東堂は 左下 さがくか こぶ を生じたので、自ら 瘤翁 りゅうおう と号していたが、別に臨んで、もう再会は 覚束 おぼつか ないといって落涙した。成善の去った翌年、明治五年九月十六日に東堂は 塩分町 しおわけちょう の家に歿した。年五十九である。四女とめが家を継いだ。今東京神田裏 神保町 じんぼうちょう に住んで、琴の師匠をしている平井 松野 まつの さんがこのとめである。