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その六十九
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その六十九

 矢島優善をして別に 一家 いっか をなして自立せしめようということは、前年即ち安政六年の すえ から、 中丸昌庵 なかまるしょうあん が主として勧説した所である。昌庵は抽斎の門人で、多才能弁を以て 儕輩 せいはい に推されていた。文政元年 うまれ であるから、当時四十三歳になって、食禄二百石八人扶持、近習医者の首位におった。昌庵はこういった。「優善さんは一時の心得 ちがえ から 貶黜 へんちつ を受けた。しかし さいわい あやまち を改めたので、一昨年 もと の地位に かえ り、昨年は 奥通 おくどおり をさえ許された。今は抽斎先生が亡くなられてから、もう二年立って、優善さんは二十六歳になっている。わたくしは去年からそう思っているが、優善さんの奮って自ら あらた にすべき時は今である。それには一家を構えて、 せめ を負って事に当らなくてはならない」といった。既にして二、三のこれに同意を表するものも出来たので、 五百 いお あやぶ みつつこの議を れたのである。比良野 貞固 さだかた は初め昌庵に反対していたが、五百が意を決したので、 また 争わなくなった。
 優善の移った緑町の家は、 渾名 あだな はと 医者と呼ばれた町医 佐久間 さくま 某の故宅である。優善は妻 てつ を家に迎え取り、 下女 げじょ 一人 いちにん を雇って三人暮しになった。
 鉄は優善の養父矢島 玄碩 げんせき の二女である。玄碩、名を やすしげ といった。 もと 抽斎の優善に命じた名は 允善 ただよし であったのを、矢島氏を冒すに及んで、養父の優字を襲用したのである。玄碩の はじめ さい 某氏には子がなかった。 後妻 こうさい 寿美 すみ 亀高村喜左衛門 かめたかむらきざえもん というものの妹で、 仮親 かりおや 上総国 かずさのくに 一宮 いちのみや の城主 加納 かのう 遠江守 久徴 ひさあきら の医官 原芸庵 はらうんあん である。寿美が二女を生んだ。長を かん といい、次を鉄という。嘉永四年正月二十三日に寿美が死し、五月二十四日に九歳の環が死し、六月十六日に玄碩が死し、跡には わずか に六歳の鉄が のこ った。
 優善はこの時矢島氏に って 末期養子 まつごようし となったのである。そしてその媒介者は中丸昌庵であった。
 中丸は当時その師抽斎に説くに、頗る多言を ついや し、矢島氏の まつり を絶つに忍びぬというを以て、抽斎の 情誼 じょうぎ うった えた。なぜというに、抽斎が次男優善をして矢島氏の女壻たらしむるのは大いなる犠牲であったからである。玄碩の遺した むすめ 鉄は重い 痘瘡 とうそう うれ えて、 瘢痕 はんこん 満面、人の見るを いと う醜貌であった。
 抽斎は中丸の こと うごか されて、美貌の子優善を鉄に与えた。 五百 いお は情として忍びがたくはあったが、事が夫の義気に でているので、強いて争うことも出来なかった。
 この事のあった年、五百は二月四日に七歳の とう を失い、十五日に三歳の 癸巳 きし を失っていた。当時五歳の くが は、 小柳町 こやなぎちょう の大工の 棟梁 とうりょう 新八が もと に里に遣られていたので、それを び帰そうと思っていると、そこへ鉄が来て抱かれて寝ることになり、陸は翌年まで里親の許に置かれた。
 棠は美しい子で、抽斎の むすめ うち では いと と棠との容姿が最も人に められていた。五百の兄栄次郎は棠の踊を る度に、「食い附きたいような子だ」といった。五百も余り棠の美しさを 云々 うんぬん するので、陸は「お あ様の えさんを褒めるのを聞いていると、わたしなんぞはお ばけ のような顔をしているとしか思われない」といい、また棠の死んだ時、「大方お母あ様はわたしを かわり に死なせたかったのだろう」とさえいった。