その二十六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その二十六
文政十二年もまた抽斎のために事多き年であった。三月十七日には師伊沢蘭軒が五十三歳で歿した。二十八日には抽斎が
近習医者介
(
きんじゅいしゃすけ
)
を仰附けられた。六月十四日には母寿松が五十五歳で亡くなった。十一月十一日には
妻
(
つま
)
定が離別せられた。十二月十五日には
二人目
(
ににんめ
)
の妻同藩留守居役百石
比良野文蔵
(
ひらのぶんぞう
)
の
女
(
むすめ
)
威能
(
いの
)
が二十四歳で
来
(
きた
)
り嫁した。抽斎はこの年二十五歳であった。
わたくしはここに抽斎の師伊沢氏の事、それから前後の配偶定と威能との事を附け加えたい。亡くなった母については別に言うべき事がない。
抽斎と伊沢氏との
交
(
まじわり
)
は、蘭軒の歿した
後
(
のち
)
も、少しも衰えなかった。蘭軒の嫡子
榛軒
(
しんけん
)
が抽斎の親しい友で、抽斎より長ずること一歳であったことは前に言った。榛軒の弟
柏軒
(
はくけん
)
、通称
磐安
(
ばんあん
)
は文化七年に生れた。
怙
(
こ
)
を
喪
(
うしな
)
った時、兄は二十六歳、弟は二十歳であった。抽斎は柏軒を愛して、
己
(
おのれ
)
の弟の如くに待遇した。柏軒は狩谷斎の
女
(
むすめ
)
俊
(
たか
)
を
娶
(
めと
)
った。その次男が
磐
(
いわお
)
、三男が今の歯科医
信平
(
しんぺい
)
さんである。
抽斎の最初の妻定が離別せられたのは
何故
(
なにゆえ
)
か
詳
(
つまびらか
)
にすることが出来ない。しかし渋江の家で、貧家の
女
(
むすめ
)
なら、こういう性質を具えているだろうと予期していた性質を、定は不幸にして具えていなかったかも知れない。
定に代って渋江の家に来た抽斎の二人目の妻威能は、
世
(
よよ
)
要職におる比良野氏の当主文蔵を父に持っていた。貧家の
女
(
じょ
)
に懲りて迎えた
子婦
(
よめ
)
であろう。そしてこの子婦は短命ではあったが、夫の家では人々に
悦
(
よろこ
)
ばれていたらしい。何故そういうかというに、
後
(
のち
)
威能が亡くなり、次の三人目の妻がまた亡くなって、四人目の妻が商家から迎えられる時、威能の父文蔵は喜んで仮親になったからである。渋江氏と比良野氏との
交誼
(
こうぎ
)
が、後に至るまで
此
(
かく
)
の如くに久しく
渝
(
かわ
)
らずにいたのを見ても、
婦壻
(
よめむこ
)
の間にヂソナンスのなかったことが思い遣られる。
比良野氏は武士
気質
(
かたぎ
)
の家であった。文蔵の父、威能の祖父であった
助太郎
(
すけたろう
)
貞彦
(
さだひこ
)
は文事と武備とを
併
(
あわ
)
せ有した豪傑の士である。
外浜
(
がいひん
)
また
嶺雪
(
れいせつ
)
と号し、安永五年に江戸藩邸の教授に挙げられた。
画
(
え
)
を善くして、「
外浜画巻
(
そとがはまがかん
)
」及「
善知鳥
(
うとう
)
画軸」がある。剣術は群を抜いていた。壮年の頃
村正
(
むらまさ
)
作の
刀
(
とう
)
を
佩
(
お
)
びて、本所
割下水
(
わりげすい
)
から
大川端
(
おおかわばた
)
辺
(
あたり
)
までの間を
彷徨
(
ほうこう
)
して
辻斬
(
つじぎり
)
をした。千人斬ろうと思い立ったのだそうである。抽斎はこの事を聞くに及んで、歎息して
已
(
や
)
まなかった。そして自分は医薬を以て千人を救おうという
願
(
がん
)
を
発
(
おこ
)
した。
天保二年、抽斎が二十七歳の時、八月六日に長女
純
(
いと
)
が生れ、十月二日に妻威能が歿した。年は二十六で、
帰
(
とつ
)
いでから僅に三年目である。十二月四日に、備後国福山の城主阿部伊予守
正寧
(
まさやす
)
の医官
岡西栄玄
(
おかにしえいげん
)
の
女
(
じょ
)
徳が抽斎に嫁した。この年八月十五日に、抽斎の父允成は隠居料三人扶持を賜わった。これは従来
寧親
(
やすちか
)
信順
(
のぶゆき
)
二公にかわるがわる勤仕していたのに、六月からは
兼
(
かね
)
て
岩城隆喜
(
いわきたかひろ
)
の
室
(
しつ
)
、信順の姉もと姫に、また八月からは信順の室
欽姫
(
かねひめ
)
に伺候することになったからであろう。
この時抽斎の家族は父允成、妻岡西氏徳、
尾島
(
おじま
)
氏
出
(
しゅつ
)
の嫡子
恒善
(
つねよし
)
、比良野氏
出
(
しゅつ
)
の長女純の四人となっていた。抽斎が三人目の妻徳を
娶
(
めと
)
るに至ったのは、徳の兄岡西
玄亭
(
げんてい
)
が抽斎と同じく蘭軒の門下におって、共に
文字
(
もんじ
)
の
交
(
まじわり
)
を訂していたからである。
天保四年四月六日に、抽斎は藩主信順に
随
(
したが
)
って江戸を発し、始めて弘前に往った。江戸に
還
(
かえ
)
ったのは、翌五年十一月十五日である。この留守に前藩主寧親は六十九歳で卒した。抽斎の父允成が四月
朔
(
さく
)
に
二人
(
ににん
)
扶持の加増を受けて、隠居料五人扶持にせられたのは、特に寧親に侍せしめられたためであろう。これは抽斎が二十九歳から三十歳に至る間の事である。
抽斎の友森
枳園
(
きえん
)
が佐々木氏
勝
(
かつ
)
を娶って、始めて家庭を作ったのも天保四年で、抽斎が弘前に往った時である。これより先枳園は文政四年に
怙
(
こ
)
を喪って、十五歳で形式的の家督相続をなした。蘭軒に従学する前二年の事である。
その二十六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||