その八十九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その八十九
専六は兵士との
交
(
まじわり
)
が
漸
(
ようや
)
く深くなって、この年五月にはとうとう「
於軍務局楽手稽古被仰付
(
ぐんむきょくにおいてがくしゅけいこおおせつけらる
)
」という
沙汰書
(
さたしょ
)
を受けた。さて楽手の修行をしているうちに、十二月二十九日に
山田源吾
(
やまだげんご
)
の養子になった。源吾は天保中津軽
信順
(
のぶゆき
)
がいまだ致仕せざる時、側用人を勤めていたが、
旨
(
むね
)
に
忤
(
さか
)
って
永
(
なが
)
の
暇
(
いとま
)
になった。しかし他家に仕えようという念もなく、
商估
(
しょうこ
)
の
業
(
わざ
)
をも好まぬので、家の
菩提所
(
ぼだいしょ
)
なる本所
中
(
なか
)
の
郷
(
ごう
)
の
普賢寺
(
ふけんじ
)
の一房に
居
(
しゅうきょ
)
し、日ごとに
街
(
ちまた
)
に
出
(
い
)
でて謡を歌って銭を
乞
(
こ
)
うた。
この純然たる浪人生活が三十年ばかり続いたのに、源吾は刀剣、
紋附
(
もんつき
)
の衣類、
上下
(
かみしも
)
等を
葛籠
(
つづら
)
一つに収めて持っていた。
承昭
(
つぐてる
)
はこの年源吾を召し
還
(
かえ
)
して、二十俵を給し、
目見
(
めみえ
)
以下の士に列せしめ、本所横川邸の番人を命じた。然るに源吾は年老い身病んで久しく職におりがたいのを
慮
(
おもんばか
)
って、養子を求めた。
この時源吾の
親戚
(
しんせき
)
に
戸沢惟清
(
とざわいせい
)
というものがあって、専六をその養子に世話をした。戸沢は
五百
(
いお
)
に説くに、山田の
家世
(
かせい
)
の
本
(
もと
)
卑
(
いやし
)
くなかったのと、東京
勤
(
づとめ
)
の身を立つるに便なるとを以てし、またこういった。「それに専六さんが東京にいると、
後
(
のち
)
に
弟御
(
おとうとご
)
さんが上京することになっても御都合が
宜
(
よろ
)
しいでしょう」といった。
成善
(
しげよし
)
は等を
降
(
くだ
)
され禄を減ぜられた後、東京に往って恥を
雪
(
すす
)
ごうと思っていたからである。
戸沢がこういって勧めた時、五百は容易にこれに耳を
傾
(
かたぶ
)
けた。五百は戸沢の
人
(
ひと
)
と
為
(
な
)
りを喜んでいたからである。戸沢惟清、通称は
八十吉
(
やそきち
)
、
信順
(
のぶゆき
)
在世の日の
側役
(
そばやく
)
であった。才幹あり気概ある人で、恭謙にして抑損し、
些
(
ちと
)
の学問さえあった。然るに酒を
被
(
こうぶ
)
るときは
剛愎
(
ごうふく
)
にして人を
凌
(
しの
)
いだ。信順は平素命じて酒を絶たしめ、
用帑
(
ようど
)
匱
(
とぼ
)
しきに至るごとに、これに酒を飲ましめ、命を当局に伝えさせた。戸沢は当局の一諾を得ないでは帰らなかったそうである。
或時戸沢は公事を以て旅行した。
物書
(
ものかき
)
松本甲子蔵
(
まつもときねぞう
)
がこれに
随
(
したが
)
っていた。
駕籠
(
かご
)
の
中
(
うち
)
に坐した戸沢が、ふと
側
(
かたわら
)
を歩く松本を見ると、
草鞋
(
わらじ
)
の緒が
足背
(
そくはい
)
を破って、鮮血が流れていた。戸沢は急に一行を
止
(
とど
)
まらせて、大声に「甲子蔵」と呼んだ。「はっ」といって松本は
轎扉
(
きょうひ
)
に近づいた。戸沢は「ちと
内用
(
ないよう
)
があるから遠慮いたせ」といって、供のものを
遠
(
とおざ
)
け、松本に
草鞋
(
わらじ
)
を脱がせて、強いて轎中に坐せしめ、自ら松本の草鞋を
著
(
つ
)
け、さて轎丁を呼んで
舁
(
か
)
いて行かせたそうである。これは松本が保さんに話した事で、保さんはまた戸沢とその弟星野伝六郎とをも
識
(
し
)
っていた。戸沢の子
米太郎
(
よねたろう
)
、星野の子
金蔵
(
きんぞう
)
の二人はかつて保さんの
教
(
おしえ
)
を受けたことがある。
戸沢の勧誘には、この年弘前に
著
(
ちゃく
)
した比良野
貞固
(
さだかた
)
も同意したので、五百は遂にこれに従って、専六が山田氏に養わるることを諾した。その事の決したのが十二月二十九日で、専六が船の青森を発したのが翌三十日である。この年専六は十七歳になっていた。然るに東京にある養父源吾は、専六がなお
舟中
(
しゅうちゅう
)
にある間に病歿した。
矢川文一郎に嫁した
陸
(
くが
)
は、この年長男
万吉
(
まんきち
)
を生んだが、万吉は夭折して弘前
新寺町
(
しんてらまち
)
の報恩寺なる
文内
(
ぶんない
)
が母の墓の
傍
(
かたわら
)
に葬られた。
抽斎の六女
水木
(
みき
)
はこの年馬役
村田小吉
(
むらたこきち
)
の子
広太郎
(
ひろたろう
)
に嫁した。時に年十八であった。既にして矢島周禎が
琴瑟
(
きんしつ
)
調わざることを五百に告げた。五百はやむをえずして水木を取り戻した。
小野氏ではこの年
富穀
(
ふこく
)
が六十四歳で致仕し、子道悦が家督相続をした。道悦は天保七年
生
(
うまれ
)
で、三十五歳になっていた。
中丸昌庵はこの年六月二十八日に歿した。文政元年生の人だから、五十三歳を以て終ったのである。
弘前の城はこの年五月二十六日に藩庁となったので、知事津軽
承昭
(
つぐてる
)
は
三之内
(
さんのうち
)
に
遷
(
うつ
)
った。
その八十九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||