その二十七
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その二十七
天保六年
閏
(
うるう
)
七月四日に、抽斎は師
狩谷斎
(
かりやえきさい
)
を喪なった。六十一歳で亡くなったのである。十一月五日に、次男
優善
(
やすよし
)
が生れた。後に名を
優
(
ゆたか
)
と改めた人である。この年抽斎は三十一歳になった。
斎の
後
(
のち
)
は
懐之
(
かいし
)
、
字
(
あざな
)
は
少卿
(
しょうけい
)
、通称は
三平
(
さんぺい
)
が
嗣
(
つ
)
いだ。抽斎の家族は父允成、妻徳、嫡男
恒善
(
つねよし
)
、長女
純
(
いと
)
、次男優善の五人になった。
同じ年に森
枳園
(
きえん
)
の家でも嫡子
養真
(
ようしん
)
が生れた。
天保七年三月二十一日に、抽斎は
近習詰
(
きんじゅづめ
)
に進んだ。これまでは近習格であったのである。十一月十四日に、師池田
京水
(
けいすい
)
が五十一歳で歿した。この年抽斎は三十二歳になった。
京水には二人の
男子
(
なんし
)
があった。長を
瑞長
(
ずいちょう
)
といって、これが家業を
襲
(
つ
)
いだ。次を
全安
(
ぜんあん
)
といって、伊沢家の女壻になった。榛軒の
女
(
むすめ
)
かえに配せられたのである。後に全安は自立して本郷
弓町
(
ゆみちょう
)
に住んだ。
天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主
信順
(
のぶゆき
)
に謁した。年
甫
(
はじめ
)
て十二である。七月十二日に、抽斎は信順に随って弘前に往った。十月二十六日に、父允成が七十四歳で歿した。この年抽斎は三十三歳になった。
初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる
詰越
(
つめこし
)
をすることになった。例に
依
(
よ
)
って翌年江戸に帰らずに、
二冬
(
ふたふゆ
)
を弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、
豕
(
ぶた
)
の子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで
悶
(
もん
)
を
遣
(
や
)
った。抽斎が酒を飲み、獣肉を
(
くら
)
うようになったのはこの時が始である。
しかし抽斎は生涯
煙草
(
タバコ
)
だけは
喫
(
の
)
まずにしまった。允成の直系卑属は、今の保さんなどに至るまで、一人も煙草を喫まぬのだそうである。但し抽斎の次男優善は破格であった。
抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。
徒士町
(
かちまち
)
の池田の家で、当主
瑞長
(
ずいちょう
)
が父京水の例に
倣
(
なら
)
って、春の
初
(
はじめ
)
に
発会式
(
ほっかいしき
)
ということをした。京水は
毎年
(
まいねん
)
これを催して、門人を
集
(
つど
)
えたのであった。然るに
今年
(
ことし
)
抽斎が往って見ると、名は発会式と称しながら、趣は全く前日に
異
(
ことな
)
っていて、京水時代の静粛は
痕
(
あと
)
だに
留
(
とど
)
めなかった。芸者が来て
酌
(
しゃく
)
をしている。森枳園が声色を使っている。抽斎は
暫
(
しばら
)
く黙して一座の光景を
視
(
み
)
ていたが、遂に
容
(
かたち
)
を改めて主客の非礼を責めた。瑞長は大いに
羞
(
は
)
じて、すぐに芸者に
暇
(
いとま
)
を遣ったそうである。
引き続いて二月に、森枳園の家に奇怪な事件が生じた。枳園は阿部家を
逐
(
お
)
われて、祖母、母、妻
勝
(
かつ
)
、生れて三歳の
倅
(
せがれ
)
養真の四人を伴って
夜逃
(
よにげ
)
をしたのである。後に枳園の自ら選んだ
寿蔵碑
(
じゅぞうひ
)
には「有故失禄」と書してあるが、その故は何かというと、実に悲惨でもあり、また
滑稽
(
こっけい
)
でもあった。
枳園は好劇家であった。単に好劇というだけなら、抽斎も同じ事である。しかし抽斎は俳優の
技
(
ぎ
)
を、
観棚
(
かんぽう
)
から望み見て
楽
(
たのし
)
むに過ぎない。枳園は自らその
科白
(
かはく
)
を学んだ。科白を学んで足らず、遂に舞台に登って
※子
(
つけ
)
或日阿部家の女中が宿に 下 ( さが ) って芝居を 看 ( み ) に 往 ( ゆ ) くと、ふと登場している俳優の一人が 養竹 ( ようちく ) さんに似ているのに気が附いた。そう思って、と 見 ( み ) こう見するうちに、女中はそれが養竹さんに相違ないと 極 ( き ) めた。そして 邸 ( やしき ) に帰ってから、これを 傍輩 ( ほうばい ) に語った。 固 ( もと ) より一の 可笑 ( おか ) しい事として語ったので、初より枳園に危害を及ぼそうとは思わなかったのである。
さてこの奇談が阿部邸の 奥表 ( おくおもて ) に 伝播 ( でんぱ ) して見ると、 上役 ( うわやく ) はこれを 棄 ( す ) て置かれぬ事と認めた。そこでいよいよ君侯に 稟 ( もう ) して禄を 褫 ( うば ) うということになってしまった。
その二十七
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||