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その二十三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その二十三

 わたくしの た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。 ひじ を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「 ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自らおるわけではないが、これを 蜀山 しょくさん らの作に比するに、 遜色 そんしょく あるを見ない。 いんてい は五郎作に文筆の才がないと思ったらしく、歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むようなる仮名書して終れりといっているが、 かく の如きは決して公論ではない。庭は もと 漫罵 まんば へき がある。五郎作と同年に歿した 喜多静廬 きたせいろ を評して、性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めりといっている。風流をどんな事と心得ていたか。わたくしは強いて静廬を回護するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩的という語の あく 解釈を挙げて、口を極めて 嘲罵 ちょうば しているのを想い起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、 角兵衛獅子 かくべえじし ることを好んで、 奈何 いか なる用事をも さしお いて玄関へ見に出たそうである。これが風流である。詩的である。
 五郎作は わか い時、 山本北山 やまもとほくざん 奚疑塾 けいぎじゅく にいた。 大窪天民 おおくぼてんみん は同窓であったので のち いた るまで親しく交った。 上戸 じょうご の天民は小さい徳利を かく して持っていて酒を飲んだ。北山が塾を見廻ってそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、その人物が小さくおもわれるといった。天民がこれを聞いて 大樽 おおだる を塾に持って来たことがあるそうである。 下戸 げこ の五郎作は定めて はた から見て笑っていたことであろう。
 五郎作はまた 博渉家 はくしょうか 山崎美成 やまざきよししげ や、画家の 喜多可庵 きたかあん と往来していた。中にも抽斎より わずか に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、 うたがい ただ すことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎の もと へ持って往って見せた。
 文政六年四月二十九日の事である。まだ 下谷 したや 長者町 ちょうじゃまち で薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ 八百屋 やおや しち のふくさというものを見せに往った。ふくさは数代 まえ 真志屋 ましや へ嫁入した しま という女の遺物である。島の 里方 さとかた 河内屋半兵衛 かわちやはんべえ といって、真志屋と同じく水戸家の 賄方 まかないかた を勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋 市左衛門 いちざえもん はこの河内屋の 地借 じかり であった。島が屋敷奉公に出る時、 おさな なじみのお七が七寸四方ばかりの 緋縮緬 ひぢりめん のふくさに、 紅絹裏 もみうら を附けて縫ってくれた。間もなく本郷 森川宿 もりかわじゅく のお七の家は 天和 てんな 二年十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に 情人 じょうにん 相識 そうしき になって、翌年の春家に帰った のち 、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである。お七は天和三年三月二十九日に、十六歳で刑せられた。島は 記念 かたみ のふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そして 祐天上人 ゆうてんしょうにん から受けた 名号 みょうごう をそれに つつ んでいた。五郎作は あらた にふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来て見せたのである。
 五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であった好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年の うまれ で、抽斎の生れた文化二年には七歳になっていた。歿したのは文久元年十二月十五日で、年を くること六十三であった。