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その八
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その八

 わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓は 容易 たやす く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立っている。「抽斎渋江君 墓碣銘 ぼけつめい 」という 篆額 てんがく も墓誌銘も、皆 小島成斎 こじませいさい の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して 刪除 さんじょ したものだそうである。『 喫茗雑話 きつめいざつわ 』の載する所は三分の一にも足りない。わたくしはまた後に 五弓雪窓 ごきゅうせっそう がこの文を『 事実文編 じじつぶんぺん けん の七十二に収めているのを知った。国書刊行会本を けみ するに、誤脱はないようである。ただ「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志を うと ませてあるのに あきたら なかった。『経籍訪古志』の書名であることは論ずるまでもなく、あれは 多紀庭 たきさいてい の命じた名だということが、抽斎と 森枳園 もりきえん との作った序に見えており、訪古の 字面 じめん は、『 宋史 そうし 鄭樵 ていしょう の伝に、 名山 めいざん 大川 たいせん あそ び、奇を捜し いにしえ を訪い、書を蔵する家に えば、必ず 借留 しゃくりゅう し、読み尽して すなわ ち去るとあるのに出たということが、枳園の書後に見えておる。
 墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女 平野氏 ひらのうじ しゅつ 」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事だそうである。また平野 うじ の生んだ むすめ というのは、 比良野文蔵 ひらのぶんぞう むすめ 威能 いの が、抽斎の 二人 ににん 目の さい になって生んだ いと である。勝久さんや終吉さんの亡父 おさむ はこの文に載せてないのである。
 抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。その一には「性如院宗是日体信士、 庚申 こうしん 元文 げんぶん 五年閏七月十七日」と、向って右の かたわら ってある。抽斎の高祖父 輔之 ほし である。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月廿六日」と彫ってある。抽斎の父 允成 ただしげ である。その間と左とに高祖父と父との配偶、 夭折 ようせつ した允成の むすめ 二人 ふたり 法諡 ほうし が彫ってある。「松峰院妙実日相信女、 己丑 きちゅう 明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、 庚戌 こうじゅつ 寛政二年四月十三日」とあるのは、 允成 ただしげ はじめ の妻田中 うじ 、「寿松院妙遠日量信女、文政十二 己丑 きちゅう 六月十四日」とあるのは、抽斎の生母 岩田氏 いわたうじ ぬい 、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年 甲寅 こういん 三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「 曇華 どんげ 水子 すいし 、文化八年 辛未 しんび じゅん 二月十四日」とあるのも、 ならび に皆允成の むすめ である。その二には「至善院格誠日在、寛保二年 壬戌 じんじゅつ 七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年 甲寅 こういん 三月十日」と彫ってある。至善院は抽斎の曾祖父 為隣 いりん で、終事院は抽斎が五十歳の時父に さきだ って死んだ長男 恒善 つねよし である。その三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、 天明 てんめい 甲辰 こうしん 二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父 本皓 ほんこう である。「智照院妙道日修信女、寛政四 壬子 じんし 八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻 登勢 とせ である。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、 安永 あんえい 六年 丁酉 ていゆう 五月三日 しす 、享年十九、俗名千代、 作臨終歌曰 りんじゅううたをつくりていわく 云々 うんぬん としてあるのは、登勢の生んだ本皓の むすめ である。抽斎の高祖父輔之は男子がなくて歿したので、十歳になる むすめ 登勢に むこ を取ったのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに歿した。そこへ本皓が養子に来て、登勢の配偶になって、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、渋江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成は本皓の養子である。次に 某々孩子 ぼうぼうがいし と二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子だそうである。その四には「渋江脩之墓」と刻してあって、これは石が新しい。終吉さんの父である。
 後に聞けば墓は今一基あって、それには抽斎の六 せい の祖 辰勝 しんしょう が「寂而院宗貞日岸居士」とし、その妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖 辰盛 しんせい が「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、その妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻 比良野氏 ひらのうじ が「照院妙浄日法大姉」とし、 おなじく 岡西 おかにし 氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまった あと に、今の終吉さんの父の墓が建てられたのだそうである。
 わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、 香華 こうげ 手向 たむ けて置いて感応寺を出た。
  いでわたくしは保さんを おうと思っていると、 たまたま むすめ 杏奴 あんぬ が病気になった。 日々 にちにち 官衙 かんが には かよ ったが、公退の時には家路を急いだ。それゆえ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。
 三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために くべからざる資料があった。それのみではない。終吉さんはその ひま に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語ってもらいたいと頼んだのである。 叔父 おじ 甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。また外崎さんも一度わたくしに代って保さんをおとずれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしが 船河原町 ふながわらちょう くに先だって、とうとう保さんが官衙に来てくれて、わたくしは抽斎の嗣子と相見ることを得た。