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その七十五
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その七十五

  五百 いお は矢島 優善 やすよし に起請文を書かせた。そしてそれを持って とら もん の金毘羅へ納めに往った。しかし起請文は納めずに、優善が 行末 ゆくすえ の事を祈念して帰った。
 小野氏ではこの年十二月十二日に、隠居 令図 れいと が八十歳で歿した。五年 ぜん に致仕して 富穀 ふこく に家を継がせていたのである。小野氏の財産は令図の たくわ えたのが一万両を超えていたそうである。
 伊沢柏軒はこの年三月に二百俵三十人扶持の奥医師にせられて、中橋埋地からお玉が池に居を移した。この時新宅の祝宴に招かれた保さんが種々の事を記憶している。柏軒の四女やすは保さんの姉 水木 みき と長唄の「 老松 おいまつ 」を歌った。 柴田常庵 しばたじょうあん という肥え太った医師は、 越中褌 えっちゅうふんどし 一つを身に着けたばかりで、「棚の 達磨 だるま 」を踊った。そして宴が散じて帰る途中で、保さんは 陣幕久五郎 じんまくひさごろう 小柳平助 こやなぎへいすけ に負けた話を聞いた。
 やすは柏軒の 庶出 しょしゅつ むすめ である。柏軒の正妻 狩谷 かりや たか の生んだ子は、幼くて死した長男 棠助 とうすけ 、十八、九歳になって 麻疹 ましん で亡くなった長女 しゅう 、狩谷 えきさい の養孫、 懐之 かいし の養子 三右衛門 さんえもん に嫁した次女 くに の三人だけで、その他の子は皆 しょう 春の はら である。その順序を言えば、長男棠助、長女洲、次女国、三女 きた 、次男 いわお 、四女やす、五女こと、三男 信平 しんぺい 、四男 孫助 まごすけ である。おやすさんは人と成って後 田舎 いなか に嫁したが、今は 麻布 あざぶ 鳥居坂町 とりいざかちょう の信平さんの もと にいるそうである。
 柴田常庵は幕府医官の 一人 いちにん であったそうである。しかしわたくしの蔵している「武鑑」には載せてない。万延元年の「武鑑」は、わたくしの蔵本に正月、三月、七月の三種がある。柏軒は正月のにはまだ奥詰の部に出ていて、三月以下のには奥医師の部に出ている。柴田は三書共にこれを載せない。維新後にこの人は狂言作者になって 竹柴寿作 たけしばじゅさく と称し、五世 坂東彦三郎 ばんどうひこさぶろう と親しかったということである。なお尋ねて見たいものである。
 陣幕久五郎の まけ は当時人の 意料 いりょう ほか に出た出来事である。抽斎は 角觝 かくてい を好まなかった。然るに保さんは おさな い時からこれを ることを喜んで、この年の春場所をも、初日から五日目まで一日も かさずに見舞った。さてその六日目が伊沢の祝宴であった。 の刻を過ぎてから、保さんは母と姉とに連れられて伊沢の家を出て帰り掛かった。途中で若党清助が迎えて、保さんに「陣幕が負けました」と 耳語 じご した。
虚言 うそ け」と、保さんは しっ した。取組は前から知っていて、 小柳 やなぎ が陣幕の敵でないことを固く信じていたのである。
「いいえ、本当です」と、清助はいった。清助の こと は事実であった。陣幕は小柳に負けた。そして小柳はこの勝の故を以て人に殺された。その殺されたのが九つ半頃であったというから、丁度保さんと清助とがこの応答をしていた時である。
 陣幕の事を言ったから、 ちなみ 小錦 こにしき の事をも言って置こう。伊沢のおかえさんに附けられていた松という少女があった。松は 魚屋与助 うおやよすけ むすめ で、菊、京の 二人 ふたり の妹があった。この京が 岩木川 いわきがわ の種を宿して生んだのが小錦 八十吉 やそきち である。
 保さんは今一つ、柏軒の奥医師になった時の事を記憶している。それは手習の師小島成斎が、この時柏軒の子鉄三郎に対する待遇を一変した事である。福山侯の家来成斎が、いかに幕府の奥医師の子を尊敬しなくてはならなかったかという、当年の階級制度の 画図 がと が、 あきらか おさな い成善の目前に展開せられたのである。