その八十
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その八十
渋江氏が本所亀沢町の家を立ち
退
(
の
)
こうとして、最も処置に
因
(
くるし
)
んだのは妙了尼の身の上であった。この老尼は天明元年に生れて、
已
(
すで
)
に八十八歳になっている。津軽家に奉公したことはあっても、生れてから江戸の土地を離れたことのない女である。それを弘前へ伴うことは、五百がためにも望ましくない。また老いさらぼいたる本人のためにも、長途の旅をして
知人
(
しるひと
)
のない
遠国
(
えんごく
)
に往くのはつらいのである。
本
(
もと
)
妙了は特に渋江氏に縁故のある女ではない。神田
豊島町
(
としまちょう
)
の古着屋の
女
(
むすめ
)
に生れて、
真寿院
(
しんじゅいん
)
の
女小姓
(
おんなごしょう
)
を勤めた。さて
暇
(
いとま
)
を取ってから人に嫁し、夫を
喪
(
うしな
)
って
剃髪
(
ていはつ
)
した。夫の弟が家を
嗣
(
つ
)
ぐに及んで、初め恋愛していたために今憎悪する戸主に虐遇せられ、それを耐え忍んで年を経た。亡夫の弟の子の代になって、虐遇は前に倍し、あまつさえ眼病を憂えた。これが弘化二年で、妙了が六十五歳になった時である。
妙了は眼病の治療を請いに抽斎の
許
(
もと
)
へ来た。前年に
来
(
きた
)
り嫁した
五百
(
いお
)
が、老尼の物語を聞いて気の毒がって、遂に食客にした。それからは渋江の家にいて子供の世話をし、中にも
棠
(
とう
)
と
成善
(
しげよし
)
とを愛した。
妙了の最も近い親戚は、本所
相生町
(
あいおいちょう
)
に
石灰屋
(
しっくいや
)
をしている弟である。しかし弟は渋江氏の江戸を去るに当って、姉を引き取ることを拒んだ。その外
今川橋
(
いまがわばし
)
の
飴屋
(
あめや
)
、
石原
(
いしはら
)
の
釘屋
(
くぎや
)
、
箱崎
(
はこざき
)
の呉服屋、豊島町の
足袋屋
(
たびや
)
なども、皆縁類でありながら、一人として老尼の世話をしようというものはなかった。
幸に妙了の
女姪
(
めい
)
が一人
富田十兵衛
(
とみたじゅうべえ
)
というものの
妻
(
さい
)
になっていて、夫に
小母
(
おば
)
の事を話すと、十兵衛は快く妙了を引き取ることを諾した。十兵衛は
伊豆国
(
いずのくに
)
韮山
(
にらやま
)
の某寺に
寺男
(
てらおとこ
)
をしているので、妙了は韮山へ往った。
四月
朔
(
さく
)
に渋江氏は亀沢町の邸宅を立ち
退
(
の
)
いて、本所
横川
(
よこかわ
)
の津軽家の中屋敷に
徙
(
うつ
)
った。次で十一日に江戸を発した。この日は官軍が江戸城を収めた日である。
一行
(
いっこう
)
は戸主成善十二歳、母
五百
(
いお
)
五十三歳、
陸
(
くが
)
二十二歳、
水木
(
みき
)
十六歳、
専六
(
せんろく
)
十五歳、矢島
優善
(
やすよし
)
三十四歳の六人と若党
二人
(
ににん
)
とである。若党の
一人
(
ひとり
)
は岩崎
駒五郎
(
こまごろう
)
という弘前のもので、今一人は
中条勝次郎
(
ちゅうじょうかつじろう
)
という
常陸国
(
ひたちのくに
)
土浦
(
つちうら
)
のものである。
同行者は
矢川文一郎
(
やかわぶんいちろう
)
と
浅越一家
(
あさごえいっけ
)
とである。文一郎は七年
前
(
ぜん
)
の文久元年に二十一歳で、本所二つ目の
鉄物問屋
(
かなものどいや
)
平野屋の
女
(
むすめ
)
柳を
娶
(
めと
)
って、
男子
(
なんし
)
を一人もうけていたが、弘前
行
(
ゆき
)
の事が
極
(
き
)
まると、柳は江戸を離れることを欲せぬので、子を連れて里方へ帰った。文一郎は江戸を立った時二十八歳である。
浅越一家は主人夫婦と
女
(
むすめ
)
とで、若党一人を連れていた。主人は通称を
玄隆
(
げんりゅう
)
といって、百八十石六人扶持の表医者である。玄隆は
少
(
わか
)
い時
不行迹
(
ふぎょうせき
)
のために父永寿に勘当せられていたが、永寿の歿するに及んで
末期
(
まつご
)
養子として
後
(
のち
)
を
承
(
う
)
け、次で抽斎の門人となり、また抽斎に紹介せられて海保漁村の塾に
入
(
い
)
った。天保九年の生れで、抽斎に従学した安政四年には二十歳であった。その後渋江氏と
親
(
したし
)
んでいて、共に江戸を立った時は三十一歳である。玄隆の妻よしは二十四歳、
女
(
むすめ
)
ふくは当歳である。
ここにこの一行に加わろうとして許されなかったものがある。わたくしはこれを
記
(
き
)
するに当って、当時の社会が今と
殊
(
こと
)
なることの甚だしきを感ずる。奉公人が臣僕の関係になっていたことは
勿論
(
もちろん
)
であるが、
出入
(
でいり
)
の職人
商人
(
あきうど
)
もまた
情誼
(
じょうぎ
)
が
頗
(
すこぶ
)
る厚かった。渋江の家に
出入
(
いでいり
)
する中で、職人には
飾屋長八
(
かざりやちょうはち
)
というものがあり、商人には
鮓屋久次郎
(
すしやきゅうじろう
)
というものがあった。長八は渋江氏の江戸を去る時
墓木
(
ぼぼく
)
拱
(
きょう
)
していたが、久次郎は六十六歳の
翁
(
おきな
)
になって
生存
(
ながら
)
えていたのである。
その八十
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||