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その百四
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その百四

 抽斎歿後の第二十五年は明治十六年である。保は前年の暮に東京に って、仮に 芝田町 しばたまち 一丁目十二番地に住んだ。そして一面愛知県庁に辞表を呈し、一面府下に職業を求めた。保は先ず職業を得て、次で 免罷 めんひ の報に接した。一月十一日には 攻玉社 こうぎょくしゃ の教師となり、二十五日には慶応義塾の教師となって、午前に慶応義塾に き、午後に攻玉社に往くことにした。攻玉社は社長が 近藤真琴 こんどうまこと 、幹事が藤田 ひそむ で、生徒中には のち に海軍少将に至った 秀島 ひでしま 某、海軍大佐に至った 笠間直 かさまちょく 等があった。慶応義塾は社頭が福沢諭吉、副社頭が 小幡篤次郎 おばたとくじろう 、校長が 浜野定四郎 はまのさだしろう で、教師中に 門野幾之進 かどのいくのしん 鎌田栄吉 かまだえいきち 等があり、生徒中に 池辺吉太郎 いけべきちたろう 門野重九郎 かどのじゅうくろう 和田豊治 わだとよじ 日比翁助 ひびおうすけ 伊吹雷太 いぶきらいた 等があった。愛知県中学校長を免ずる辞令は二月十四日を以て発せられた。保は しば 烏森町 からすもりちょう 一番地に家を借りて、四月五日に 国府 こふ から かえ った母と 水木 みき とを迎えた。
 勝久は 相生町 あいおいちょう の家で長唄を教えていて、山田脩はその家から府庁電信局に通勤していた。そこへ ゆたか が開拓使の職を辞して札幌から帰ったのが八月十日である。優は無妻になっているので、勝久に説いて師匠を めさせ、 もっぱ ら家政を つかさど らせた。
 八月中の事であった。保は かく を避けて『横浜毎日新聞』に寄する文を草せんがために、 一週日 いっしゅうじつ ほどの間柳島の 帆足謙三 ほあしけんぞう というものの家に 起臥 きが していた。烏森町の家には水木を のこ して母に侍せしめ、かつ優、脩、勝久の三人をして交る交るその安否を問わしめた。然るに或夜水木が帆足の家に来て、母が病気と見えて何も食わなくなったと告げた。
 保が家に帰って見ると、五百は床を敷かせて寝ていた。「 只今 ただいま 帰りました」と、保はいった。
「お かえり かえ」といって、五百は微笑した。
「おっ 様、あなたは何も上らないそうですね。わたくしは暑くてたまりませんから、氷を食べます。」
「そんならついでにわたしのも取っておくれ。」五百は氷を食べた。
 翌朝保が「わたくしは 今朝 けさ は生卵にします」といった。
「そうかい、そんならわたしも食べて見よう。」五百は生卵を食べた。
  ひる になって保はいった。「きょうは久しぶりで、洗いに 水貝 みずがい を取って、少し酒を飲んで、それから飯にします。」
「そんならわたしも少し飲もう。」五百は洗いで酒を飲んだ。その時はもう平日の如く起きて坐っていた。
 晩になって保はいった。「どうも夕方になってこんなに風がちっともなくては しの ぎ切れません。これから 汐湯 しおゆ 這入 はい って、 湖月 こげつ に寄って涼んで来ます。」
「そんならわたしも くよ。」五百は遂に汐湯に って、湖月で 飲食 のみくい した。
 五百は保が久しく帰らぬがために物を食わなくなったのである。五百は女子中では とう を愛し、男子中では保を愛した。さきに弘前に留守をしていて、保を東京に ったのは、意を決した上の事である。それゆえ 年余 ねんよ の久しきに堪えた。これに反して帰るべくして帰らざる保を日ごとに待つことは、五百の かた んずる所であった。この時五百は六十八歳、保は二十七歳であった。