その三十七
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その三十七
阿部家への帰参が
(
かな
)
って、枳園が家族を
纏
(
まと
)
めて江戸へ来ることになったので、抽斎はお玉が池の住宅の近所に
貸家
(
かしいえ
)
のあったのを借りて、敷金を出し家賃を払い、応急の
器什
(
きじゅう
)
を買い集めてこれを迎えた。枳園だけは病家へ
往
(
ゆ
)
かなくてはならぬ職業なので、衣類も
一通
(
ひととおり
)
持っていたが、家族は身に着けたものしか持っていなかった。枳園の妻
勝
(
かつ
)
の事を、
五百
(
いお
)
があれでは
素裸
(
すはだか
)
といっても
好
(
い
)
いといった位である。五百は髪飾から
足袋
(
たび
)
下駄
(
げた
)
まで、一切
揃
(
そろ
)
えて贈った。それでも当分のうちは、何かないものがあると、蔵から物を出すように、勝は五百の所へ
貰
(
もら
)
いに来た。或日これで白縮緬の
湯具
(
ゆぐ
)
を六本
遣
(
や
)
ることになると、五百がいったことがある。五百がどの位親切に世話をしたか、勝がどの位
恬然
(
てんぜん
)
として世話をさせたかということが、これによって想像することが出来る。また枳園に幾多の
悪
(
あく
)
性癖があるにかかわらず、抽斎がどの位、その才学を尊重していたかということも、これによって想像することが出来る。
枳園が医書彫刻取扱
手伝
(
てつだい
)
という名義を以て、躋寿館に召し出されたのは、嘉永元年十月十六日である。
当時躋寿館で校刻に従事していたのは、『
備急
(
びきゅう
)
千金要方』三十巻三十二冊の
宋槧本
(
そうざんぼん
)
であった。これより
先
(
さ
)
き多紀氏は同じ
孫思
(
そんしばく
)
の『千金
翼方
(
よくほう
)
』三十巻十二冊を校刻した。これは
元
(
げん
)
の
成宗
(
せいそう
)
の
大徳
(
だいとく
)
十一年
梅渓
(
ばいけい
)
書院の刊本を以て底本としたものである。
尋
(
つ
)
いで手に
入
(
い
)
ったのが『千金要方』の宋版である。これは毎巻
金沢文庫
(
かなざわぶんこ
)
の印があって、
北条顕時
(
ほうじょうあきとき
)
の旧蔵本である。
米沢
(
よねざわ
)
の城主
上杉
(
うえすぎ
)
弾正大弼
(
だんじょうのだいひつ
)
斉憲
(
なりのり
)
がこれを幕府に献じた。
細
(
こまか
)
に検すれば南宋『
乾道淳煕
(
けんどうじゅんき
)
』中の補刻数葉が交っているが、大体は北宋の
旧面目
(
きゅうめんぼく
)
を存している。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。然るに幕府はこれを聞いて、官刻を命ずることになった。そこで影写校勘の任に当らしむるために、三人の手伝が出来た。阿部伊勢守正弘の家来
伊沢磐安
(
いさわばんあん
)
、
黒田
(
くろだ
)
豊前守
(
ぶぜんのかみ
)
直静
(
なおちか
)
の家来
堀川舟庵
(
ほりかわしゅうあん
)
、それから多紀
楽真院
(
らくしんいん
)
門人
森養竹
(
もりようちく
)
である。磐安は即ち柏軒で、舟庵は『経籍訪古志』の
跋
(
ばつ
)
に見えている堀川
済
(
せい
)
である。舟庵の
主
(
しゅ
)
黒田直静は上総国
久留利
(
くるり
)
の城主で、上屋敷は
下谷広小路
(
したやひろこうじ
)
にあった。
任命は
若年寄
(
わかどしより
)
大岡
主膳正
(
しゅぜんのかみ
)
忠固
(
ただかた
)
の差図を以て、館主多紀
安良
(
あんりょう
)
が申し渡し、世話役小島
春庵
(
しゅんあん
)
、世話役手伝勝本
理庵
(
りあん
)
、
熊谷
(
くまがい
)
弁庵
(
べんあん
)
が列座した。安良は即ち
暁湖
(
ぎょうこ
)
である。
何故
(
なにゆえ
)
に枳園が
庭
(
さいてい
)
の門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への帰参は当時内約のみであって、まだ
表向
(
おもてむき
)
になっていなかったのでもあろうか。枳園は四十二歳になっていた。
この年八月二十九日に、
真志屋
(
ましや
)
五郎作
(
ごろさく
)
が八十歳で歿した。抽斎はこの時三世
劇神仙
(
げきしんせん
)
になったわけである。
嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて
登城
(
とじょう
)
した。
躑躅
(
つつじ
)
の
間
(
ま
)
において、
老中
(
ろうじゅう
)
牧野備前守
忠雅
(
ただまさ
)
の
口達
(
こうたつ
)
があった。年来学業出精に
付
(
つき
)
、ついでの節
目見
(
めみえ
)
仰附けらるというのである。この月十五日に謁見は済んだ。始て「武鑑」に載せられる身分になったのである。
わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が
手狭
(
てぜま
)
なために、五百の里方山内の家を渋江邸として届け
出
(
い
)
でたものである。
その三十七
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||