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その百六
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その百六

 渋江氏の住んでいた烏森の家からは、 存生堂 ぞんせいどう という松山 棟庵 とうあん の出張所が最も近かった。出張所には 片倉 かたくら 某という医師が住んでいた。保は存生堂に駆け附けて、片倉を連れて家に帰った。存生堂からは松山の出張をも請いに遣った。
 片倉が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診していった。「これは脳卒中で 右半身不随 ゆうはんしんふずい になっています。出血の部位が重要部で、その血量も多いから、回復の のぞみ はありません」といった。
 しかし保はその こと を信じたくなかった。一時 くう ていた母が今は人の おもて に注目する。人が去れば目送する。 枕辺 ちんぺん に置いてあるハンカチイフを 左手 さしゅ って畳む。保が そば に寄るごとに、左手で保の胸を でさえした。
 保は更に 印東玄得 いんどうげんとく をも呼んで見せた。しかし所見は松山と同じで、この上手当のしようはないといった。
 五百は遂に十四日の午前七時に絶息した。
 五百の晩年の生活は 日々 にちにち 印刷したように同じであった。 祁寒 きかん の時を除く外は、朝五時に起きて掃除をし、 手水 ちょうず を使い、仏壇を拝し、六時に朝食をする。次で新聞を読み、暫く読書する。それから 午餐 ごさん の支度をして、正午に午餐する。午後には裁縫し、四時に至って女中を連れて家を出る。散歩がてら買物をするのである。魚菜をも大抵この時買う。 夕餉 ゆうげ は七時である。これを終れば、日記を附ける。次でまた読書する。 めば保を呼んで を囲みなどすることもある。 しん に就くのは十時である。
 隔日に入浴し、毎月曜日に髪を洗った。寺には毎月一度 もう で、親と夫との 忌日 きにち には別に詣でた。会計は抽斎の世にあった時から自らこれに当っていて、死に いた るまで廃せなかった。そしてその節倹の用意には驚くべきものがあった。
 五百の晩年に読んだ書には、新刊の歴史地理の類が多かった。『 兵要 へいよう 日本地理小志』はその文が簡潔で いといって、 そば に置いていた。
 奇とすべきは、五百が六十歳を えてから英文を読みはじめた事である。五百は頗る早く西洋の学術に注意した。その時期を考うるに、抽斎が 安積艮斎 あさかごんさい の書を読んで西洋の事を知ったよりも早かった。五百はまだ 里方 さとかた にいた時、或日兄栄次郎が 鮓久 すしきゅう に奇な事を言うのを聞いた。「人間は よる さか さになっている」云々といったのである。五百は あやし んで、鮓久が去った のち に兄に問うて、 はじめ て地動説の講釈を聞いた。その のち 兄の机の上に『 気海観瀾 きかいかんらん 』と『地理全志』とのあるのを見て、取って読んだ。
 抽斎に嫁した後、或日抽斎が「どうも天井に はえ ふん をして困る」といった。五百はこれを聞いていった。「でも人間も夜は蝿が天井に止まったようになっているのだと申しますね」といった。抽斎は さい が地動説を知っているのに驚いたそうである。
 五百は漢訳和訳の洋説を読んで あきたら ぬので、とうとう保にスペルリングを教えてもらい、ほどなくウィルソンの 読本 どくほん に移り、一年ばかり立つうちに、パアレエの『万国史』、カッケンボスの『米国史』、ホオセット夫人の『経済論』等をぽつぽつ読むようになった。
 五百の抽斎に嫁した時、婚を求めたのは抽斎であるが、この間に或秘密が包蔵せられていたそうである。それは抽斎をして婚を求むるに至らしめたのは、阿部家の医師 石川貞白 いしかわていはく が勧めたので、石川貞白をして勧めしめたのは、五百自己であったというのである。