その四十
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その四十
抽斎は有合せの
道春点
(
どうしゅんてん
)
の『論語』を取り出させて、
巻
(
まきの
)
七を開いた。そして「
子貢問曰
(
しこうといていわく
)
、
何如斯可謂之土矣
(
いかなるをかこれこれをしというべき
)
」という所から講じ始めた。
固
(
もと
)
より朱註をば顧みない。
都
(
すべ
)
て古義に従って縦説横説した。抽斎は師迷庵の校刻した
六朝本
(
りくちょうぼん
)
の如きは、
何時
(
なんどき
)
でも
毎葉
(
まいよう
)
毎行
(
まいこう
)
の文字の配置に至るまで、
空
(
くう
)
に
憑
(
よ
)
って思い浮べることが出来たのである。
貞固
(
さだかた
)
は謹んで
聴
(
き
)
いていた。そして抽斎が「
子曰
(
しのたまわく
)
、
噫斗之人
(
ああとしょうのひと
)
、
何足算也
(
なんぞかぞうるにたらん
)
」に説き
到
(
いた
)
ったとき、貞固の目はかがやいた。
講じ
畢
(
おわ
)
った
後
(
のち
)
、貞固は
暫
(
しばら
)
く
瞑目
(
めいもく
)
沈思していたが、
徐
(
しずか
)
に
起
(
た
)
って仏壇の前に往って、祖先の位牌の前にぬかずいた。そしてはっきりした声でいった。「わたくしは
今日
(
こんにち
)
から一命を
賭
(
と
)
して職務のために尽します。」貞固の目には涙が
湛
(
たた
)
えられていた。
抽斎はこの日に比良野の家から帰って、
五百
(
いお
)
に「比良野は実に立派な
侍
(
さむらい
)
だ」といったそうである。その声は
震
(
ふるい
)
を帯びていたと、後に五百が話した。
留守居になってからの貞固は、
毎朝
(
まいちょう
)
日の
出
(
いず
)
ると共に起きた。そして先ず
厩
(
うまや
)
を見廻った。そこには愛馬
浜風
(
はまかぜ
)
が
繋
(
つな
)
いであった。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかというと、馬は
生死
(
しょうし
)
を共にするものだからと、貞固は答えた。厩から帰ると、
盥嗽
(
かんそう
)
して仏壇の前に坐した。そして
木魚
(
もくぎょ
)
を
敲
(
たた
)
いて
誦経
(
じゅきょう
)
した。この間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかった。来客もそのまま待たせられることになっていた。誦経が
畢
(
おわ
)
って、髪を結わせた。それから
朝餉
(
あさげ
)
の
饌
(
ぜん
)
に向った。饌には必ず酒を設けさせた。朝といえども省かない。
(
さかな
)
には
選嫌
(
えりぎらい
)
をしなかったが、のだ
平
(
へい
)
の
蒲鉾
(
かまぼこ
)
を
嗜
(
たし
)
んで、
闕
(
か
)
かさずに出させた。これは
贅沢品
(
ぜいたくひん
)
で、
鰻
(
うなぎ
)
の
丼
(
どんぶり
)
が二百文、
天麩羅蕎麦
(
てんぷらそば
)
が三十二文、
盛掛
(
もりかけ
)
が十六文するとき、
一板
(
ひといた
)
二分二朱であった。
朝餉
(
あさげ
)
の
畢
(
おわ
)
る
比
(
ころ
)
には、藩邸で
巳
(
み
)
の刻の
大鼓
(
たいこ
)
が鳴る。名高い津軽屋敷の
櫓
(
やぐら
)
大鼓である。かつて江戸町奉行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家が
聴
(
きか
)
ずに、とうとう上屋敷を
隅田川
(
すみだがわ
)
の東に
徙
(
うつ
)
されたのだと、
巷説
(
こうせつ
)
に言い伝えられている。津軽家の上屋敷が神田
小川町
(
おがわまち
)
から本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の大鼓を聞くと、津軽家の留守居役所に出勤して事務を処理する。次いで登城して
諸家
(
しょけ
)
の留守居に会う。従者は自ら
豢
(
やしな
)
っている若党
草履取
(
ぞうりとり
)
の外に、
主家
(
しゅうけ
)
から附けられるのである。
留守居には集会日というものがある。その日には城から会場へ
往
(
ゆ
)
く。
八百善
(
やおぜん
)
、
平清
(
ひらせい
)
、
川長
(
かわちょう
)
、
青柳
(
あおやぎ
)
等の料理屋である。また吉原に会することもある。集会には
煩瑣
(
はんさ
)
な作法があった。これを礼儀といわんは美に過ぎよう。
譬
(
たと
)
えば
筵席
(
えんせき
)
の
觴政
(
しょうせい
)
の如く、また西洋学生団のコンマンの如しともいうべきであろうか。しかし集会に列するものは、これがために命の
取遣
(
とりやり
)
をもしなくてはならなかった。
就中
(
なかんずく
)
厳しく守られていたのは
新参
(
しんざん
)
故参
(
こさん
)
の序次で、故参は新参のために座より起つことなく、新参は必ず故参の前に進んで
挨拶
(
あいさつ
)
しなくてはならなかった。
津軽家では留守居の年俸を三百石とし、別に一カ月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆえ、これに二百石を補足せられたのである。
五百
(
いお
)
の
覚書
(
おぼえがき
)
に
拠
(
よ
)
るに、三百石十人扶持の渋江の月割が五両一分、二百石八人扶持の矢島の月割が三両三分であった。矢島とは後に抽斎の二子
優善
(
やすよし
)
が養子に往った家の名である。これに
由
(
よ
)
って
観
(
み
)
れば、貞固の月収は五両一分に十八両を加えた二十三両一分と見て大いなる差違はなかろう。然るに貞固は少くも月に交際費百両を要した。しかもそれは平常の
費
(
ついえ
)
である。吉原に火災があると、貞固は
妓楼
(
ぎろう
)
佐野槌
(
さのづち
)
へ、百両に
熨斗
(
のし
)
を附けて持たせて遣らなくてはならなかった。また相方
黛
(
まゆずみ
)
のむしんをも、折々は聴いて遣らなくてはならなかった。或る年の暮に、貞固が五百に私語したことがある。「
姉
(
ね
)
えさん、察して下さい。正月が来るのに、わたしは実は
褌
(
ふんどし
)
一本買う銭もない。」
その四十
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||