その八十六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その八十六
抽斎の四女陸はこの家庭に生長して、当時なおその境遇に甘んじ、
毫
(
ごう
)
も婚嫁を急ぐ念がなかった。それゆえかつて一たび飯田
寅之丞
(
とらのじょう
)
に嫁せんことを勧めたものもあったが、事が
調
(
ととの
)
わなかった。寅之丞は当時近習小姓であった。天保十三年
壬寅
(
じんいん
)
に生れたからの名である。即ち今の飯田
巽
(
たつみ
)
さんで、巽の字は明治二年
己巳
(
きし
)
に二十八になったという意味で選んだのだそうである。陸との縁談は
媒
(
なこうど
)
が先方に告げずに渋江氏に勧めたのではなかろうが、余り古い事なので巽さんは
已
(
すで
)
に忘れているらしい。然るにこの度は陸が遂に文一郎の
聘
(
へい
)
を
却
(
しりぞ
)
くることが出来なくなった。
文一郎は最初の妻
柳
(
りゅう
)
が江戸を去ることを欲せぬので、一人の子を附けて里方へ還して置いて弘前へ立った。弘前に来た直後に、文一郎は二度目の妻を
娶
(
めと
)
ったが、いまだ
幾
(
いくばく
)
ならぬにこれを去った。この女は西村与三郎の
女
(
むすめ
)
作であった。次で箱館から帰った頃からであろう、陸を娶ろうと思い立って、人を
遣
(
つかわ
)
して請うこと数度に及んだ。しかし渋江氏では
輒
(
すなわ
)
ち動かなかった。陸には旧に
依
(
よ
)
って婚嫁を急ぐ念がない。五百は文一郎の好人物なることを熟知していたが、これを壻にすることをば望まなかった。こういう事情の
下
(
もと
)
に、両家の間にはやや久しく緊張した関係が続いていた。
文一郎は壮年の時パッションの強い性質を有していた。その陸に対する要望はこれがために頗る熱烈であった。渋江氏では、もしその
請
(
こい
)
を
納
(
い
)
れなかったら、あるいは両家の間に
事端
(
じたん
)
を生じはすまいかと
慮
(
おもんばか
)
った。陸が遂に文一郎に嫁したのは、この
疑懼
(
ぎく
)
の犠牲になったようなものである。
この結婚は、名義からいえば、陸が矢川氏に嫁したのであるが、
形迹
(
けいせき
)
から見れば、文一郎が壻入をしたようであった。式を
行
(
おこな
)
った翌日から、夫婦は終日渋江の家にいて、
夜更
(
よふ
)
けて矢川の家へ寝に帰った。この時文一郎は
新
(
あらた
)
に
馬廻
(
うままわり
)
になった年で二十九歳、陸は二十三歳であった。
矢島
優善
(
やすよし
)
は、陸が文一郎の
妻
(
さい
)
になった翌月、即ち十月に、土手町に家を持って、周禎の
許
(
もと
)
にいた鉄を迎え入れた。これは
行懸
(
ゆきがか
)
りの上から当然の事で、五百は
傍
(
はた
)
から世話を焼いたのである。しかし二十三歳になった鉄は、もう昔日の如く夫の甘言に
賺
(
すか
)
されてはおらぬので、この土手町の住いは優善が
身上
(
しんじょう
)
のクリジスを起す場所となった。
優善と鉄との間に、夫婦の愛情の生ぜぬことは、
固
(
もと
)
より予期すべきであった。しかし
啻
(
ただ
)
に愛情が生ぜざるのみではなく、二人は
忽
(
たちま
)
ち
讐敵
(
しゅうてき
)
となった。そしてその争うには、鉄がいつも攻勢を取り、物質上の利害問題を
提
(
ひっさ
)
げて夫に当るのであった。「あなたがいくじがないばかりに、あの周禎のような男に矢島の家を取られたのです。」この句が
幾度
(
いくたび
)
となく反復せられる鉄が論難の主眼であった。優善がこれに答えると、鉄は冷笑する、舌打をする。
この
争
(
あらそい
)
は週を
累
(
かさ
)
ね月を累ねて
歇
(
や
)
まなかった。五百らは百方調停を試みたが何の功をも奏せなかった。
五百はやむことをえぬので、周禎に交渉して再び鉄を引き取ってもらおうとした。しかし周禎は容易に応ぜなかった。渋江氏と周禎が
方
(
かた
)
との間に、幾度となく交換せられた要求と拒絶とは、
押問答
(
おしもんどう
)
の姿になった。
この
往反
(
おうへん
)
の最中に忽ち優善が
失踪
(
しっそう
)
した。十二月二十八日に土手町の家を出て、それきり帰って来ぬのである。渋江氏では、優善が
悶
(
もん
)
を排せんがために酒色の境に
遁
(
のが
)
れたのだろうと思って、
手分
(
てわけ
)
をして料理屋と
妓楼
(
ぎろう
)
とを捜索させた。しかし優善のありかはどうしても知れなかった。
その八十六
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