その二十
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その二十
晋
(
しん
)
の撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子
善直
(
ぜんちょく
)
というものを挙げて、「
多病不能継業
(
やまいおおくぎょうをつぐあたわず
)
」と書してある。その前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四
言
(
げん
)
の多きに及んである。瑞仙は痘を
治
(
ち
)
することの難きを説いて、「数百之
弟子
(
でし
)
、
無能熟得之者
(
よくじゅくとくせるものなし
)
」といい、晋を賞して、「
而汝能継我業
(
しこうしてなんじよくわがぎょうをつぐ
)
」といっている。
わたくしはいまだ過去帖を獲ざる前にこれを読んで、善直は京水の
初
(
はじめ
)
の名であろうと思った。京水の墓誌に多病を以て
嗣
(
し
)
を廃せらるというように書してあったというのと、符節は
合
(
あわ
)
するようだからである。過去帖に従えば、庶子善直と
姪
(
てつ
)
京水とは別人でなくてはならない。しかし善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかという
疑
(
うたがい
)
が、今に
迄
(
いた
)
るまでいまだ全くわたくしの
懐
(
かい
)
を去らない。特に
彼
(
かの
)
過去帖に遠近の
親戚
(
しんせき
)
百八人が挙げてあるのに、初代瑞仙のただ一人の実子善直というものが
痕跡
(
こんせき
)
をだに
留
(
とど
)
めずに消滅しているという一事は、この疑を助長する
媒
(
なかだち
)
となるのである。
そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水が
刺
(
そし
)
ってあるのを見ては、
忌憚
(
きたん
)
なきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語を
記
(
き
)
して、一の抑損の句をも
著
(
つ
)
けぬのを見ては、
簡傲
(
かんごう
)
もまた甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、京水の三人の間に或るドラアムが蔵せられているように思われてならない。わたくしの世の人に教を乞いたいというのはこれである。
わたくしは抽斎の誕生を語るに当って、
後
(
のち
)
にその師となるべき人々を数えた。それは抽斎の生れた時、四十一歳であった迷庵、三十一歳であった
斎
(
えきさい
)
、二十九歳であった蘭軒の三人と、京水とであって、独り京水は過去帖を獲るまでその
齢
(
よわい
)
を算することが出来なかった。なぜというに、京水の歿年が天保七年だということは、保さんが知っていたが、
年歯
(
ねんし
)
に至っては全く所見がなかったからである。
過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、
字
(
あざな
)
を
信卿
(
しんけい
)
といって寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。
法諡
(
ほうし
)
して
宗経軒
(
そうけいけん
)
京水
瑞英居士
(
ずいえいこじ
)
という。
これに由って
観
(
み
)
れば、京水は天明六年の
生
(
うまれ
)
で、抽斎の生れた文化二年には二十歳になっていた。抽斎の四人の師の
中
(
うち
)
では最年少者であった。
後に抽斎と
交
(
まじわ
)
る人々の中、抽斎に
先
(
さきだ
)
って生れた学者は、
安積艮斎
(
あさかごんさい
)
、小島成斎、岡本
况斎
(
きょうさい
)
、海保漁村である。
安積艮斎は抽斎との
交
(
まじわり
)
が深くなかったらしいが、抽斎をして
西学
(
せいがく
)
を忌む念を
翻
(
ひるがえ
)
さしめたのはこの人の力である。艮斎、名は
重信
(
しげのぶ
)
、修して
信
(
しん
)
という。通称は
祐助
(
ゆうすけ
)
である。奥州
郡山
(
こおりやま
)
の
八幡宮
(
はちまんぐう
)
の
祠官
(
しかん
)
安藤筑前
(
あんどうちくぜん
)
親重
(
ちかしげ
)
の子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村の
里正
(
りせい
)
今泉氏
(
いまいずみうじ
)
の壻になって、妻に嫌われ、翌年江戸に
奔
(
はし
)
った。しかし
誰
(
たれ
)
にたよろうというあてもないので、うろうろしているのを、日蓮宗の僧
日明
(
にちみょう
)
が見附けて、
本所
(
ほんじょ
)
番場町
(
ばんばちょう
)
の
妙源寺
(
みょうげんじ
)
へ連れて帰って、
数月
(
すうげつ
)
間
留
(
と
)
めて置いた。そして世話をして
佐藤一斎
(
さとういっさい
)
の家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立っている寺である。それから二十一歳にして
林述斎
(
はやしじゅっさい
)
の門に
入
(
い
)
った。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。そうして見ると、抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であった。これは艮斎が
万延
(
まんえん
)
元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。
小島成斎名は
知足
(
ちそく
)
、
字
(
あざな
)
は
子節
(
しせつ
)
、初め静斎と号した。通称は五一である。斎の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表に
文久
(
ぶんきゅう
)
二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年には
甫
(
はじ
)
めて十歳である。父
親蔵
(
しんぞう
)
が福山侯
阿部
(
あべ
)
備中守
正精
(
まさきよ
)
に仕えていたので、成斎も江戸の藩邸に住んでいた。
その二十
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||