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その百十二
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その百十二

 抽斎の 後裔 こうえい にして今に存じているものは、上記の如く、先ず指を牛込の渋江氏に屈せなくてはならない。主人の保さんは抽斎の第七子で、継嗣となったものである。 けい を漁村、 竹逕 ちくけい の海保氏父子、島田 篁村 こうそん 、兼松 石居 せききょ 、根本羽嶽に、漢医方を多紀 雲従 うんじゅう に受け、師範学校において、教育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり、あるいは教頭となり、 かたわら 新聞記者として、政治を論じた。しかし最も大いに精力を ついや したものは、 書肆 しょし 博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約百五十部の多きに至っている。その書は随時 世人 せいじん を啓発した功はあるにしても、 おおむね 時尚 じしょう を追う 書估 しょこ 誅求 ちゅうきゅう に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたといわざることを得ない。そして保さんは自らこれを知っている。 畢竟 ひっきょう 文士と書估との関係はミュチュアリスムであるべきのに、実はパラジチスムになっている。保さんは生物学上の亭主役をしたのである。
 保さんの作らんと欲する書は、今なお計画として保さんの意中にある。 いわ く本私刑史、曰く支那刑法史、曰く 経子 けいし 一家言、曰く周易一家言、曰く読書五十年、この五部の書が即ちこれである。 就中 なかんずく 読書五十年の如きは、 ただ に計画として存在するのみではない、その 藁本 こうほん が既に たい を成している。これは一種のビブリオグラフィイで、保さんの博渉の一面を うかが うに足るものである。著者の志す所は 厳君 げんくん の『経籍訪古志』を 廓大 かくだい して、 いにしえ より今に及ぼし、東より西に及ぼすにあるといっても、あるいは不可なることがなかろう。保さんは果して くその志を成すであろうか。世間は果して能く保さんをしてその志を成さしむるであろうか。
 保さんは 今年 こんねん 大正五年に六十歳、妻佐野氏お松さんは四十八歳、 じょ 乙女さんは十七歳である。乙女さんは明治四十一年以降 鏑木清方 かぶらききよかた いて を学び、また大正三年 以還 いかん 跡見 あとみ 女学校の生徒になっている。
 第二には本所の渋江氏がある。 女主人 おんなあるじ は抽斎の四女 くが で、長唄の師匠 杵屋勝久 きねやかつひさ さんがこれである。既に したる如く、大正五年には七十歳になった。
 陸が はじめ て長唄の手ほどきをしてもらった師匠は日本橋 馬喰町 ばくろうちょう の二世杵屋勝三郎で、 馬場 ばば 鬼勝 おにかつ と称せられた名人である。これは嘉永三年陸が わずか に四歳になった時だというから、まだ小柳町の大工の 棟梁 とうりょう 新八の家へ里子に遣られていて、そこから 稽古 けいこ に通ったことであろう。
 母五百も声が かったが、陸はそれに似た美声だといって、勝三郎が めた。節も好く おぼ えた。 三味線 さみせん は「 よい は待ち」を く時、早く既に自ら調子を合せることが出来、めりやす「黒髪」位に至ると、師匠に連れられて、 所々 しょしょ 大浚 おおざらえ に往った。
 勝三郎は陸を教えるに、特別に骨を折った。 月六斎 つきろくさい と日を期して、勝三郎が 喜代蔵 きよぞう 辰蔵 たつぞう 二人の 弟子 でし を伴って、お玉が池の渋江の やしき に出向くと、その日には くが も里親の もと から帰って待ち受けていた。陸の さらえ おわ ると、二番位演奏があって、その上で 酒飯 しゅはん が出た。料理は必ず 青柳 あおやぎ から 為出 しだ した。嘉永四年に渋江氏が本所台所町に移ってからも、この出稽古は継続せられた。