その五十
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その五十
優善の
夥伴
(
なかま
)
になっていた塩田
良三
(
りょうさん
)
は、父の勘当を
蒙
(
こうむ
)
って、抽斎の家の
食客
(
しょっかく
)
となった。我子の
乱行
(
らんぎょう
)
のために
譴
(
せめ
)
を受けた抽斎が、その乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家におらせたのは、余りに寛大に過ぎるようであるが、これは才を愛する情が深いからの事であったらしい。抽斎は人の
寸長
(
すんちょう
)
をも
見
(
みのが
)
さずに、これに
保護
(
ほうご
)
を加えて、
幾
(
ほとん
)
どその
瑕疵
(
かし
)
を忘れたるが如くであった。年来森
枳園
(
きえん
)
を
扶掖
(
ふえき
)
しているのもこれがためである。今良三を家に置くに至ったのも、良三に幾分の才気のあるのを認めたからであろう。
固
(
もと
)
より抽斎の
許
(
もと
)
には、常に数人の諸生が養われていたのだから、良三はただこの
群
(
むれ
)
に
新
(
あらた
)
に
来
(
きた
)
り加わったに過ぎない。
数月
(
すうげつ
)
の
後
(
のち
)
に、抽斎は良三を
安積艮斎
(
あさかごんさい
)
の塾に住み込ませた。これより先艮斎は天保十三年に故郷に帰って、
二本松
(
にほんまつ
)
にある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来
昌平黌
(
しょうへいこう
)
の教授になっていた。抽斎は
彼
(
か
)
の終始
濂渓
(
れんけい
)
の学を奉じていた艮斎とは深く交らなかったのに、これに良三を託したのは、良三の
吏材
(
りさい
)
たるべきを知って、これを培養することを
謀
(
はか
)
ったのであろう。
抽斎の先妻徳の
里方
(
さとかた
)
岡西氏では、この年七月二日に徳の父栄玄が歿し、次いで十一月十一日に徳の兄玄亭が歿した。
栄玄は医を以て阿部家に仕えた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であったので、抽斎はこれと
交
(
まじわり
)
を訂し、遂にその妹徳を
娶
(
めと
)
るに至ったのである。徳の亡くなった
後
(
のち
)
も、次男優善がその
出
(
しゅつ
)
であるので、抽斎
一家
(
いっけ
)
は岡西氏と常に往来していた。
栄玄は
樸直
(
ぼくちょく
)
な人であったが、往々性癖のために言行の
規矩
(
きく
)
を
踰
(
こ
)
ゆるを見た。かつて八文の煮豆を買って
鼠不入
(
ねずみいらず
)
の中に蔵し、しばしばその存否を検したことがある。また或日
海
(
ぶり
)
一尾を携え来って、抽斎に
遺
(
おく
)
り、帰途に再び
訪
(
と
)
わんことを約して去った。五百はために
酒饌
(
しゅぜん
)
を設けようとして
頗
(
すこぶ
)
る苦心した。それは栄玄が
饌
(
ぜん
)
に対して
奢侈
(
しゃし
)
を戒めたことが数次であったからである。抽斎は遺られた所の海を
饗
(
きょう
)
することを命じた。栄玄は来て饗を受けたが、
色
(
いろ
)
悦ばざるものの如く、遂に「客にこんな
馳走
(
ちそう
)
をすることは、わたしの
内
(
うち
)
ではない」といった。五百が「これはお持たせでございます」といったが、栄玄は聞えぬふりをしていた。調理法が
好過
(
よす
)
ぎたのであろう。
尤
(
もっと
)
も抽斎をして不平に堪えざらしめたのは、栄玄が庶子
苫
(
とま
)
を遇することの甚だ薄かったことである。苫は栄玄が
厨下
(
ちゅうか
)
の
婢
(
ひ
)
に生せた
女
(
むすめ
)
である。栄玄はこれを認めて子としたのに、「あんなきたない子は畳の上には置かれない」といって、板の
間
(
ま
)
に
蓙
(
ござ
)
を敷いて寝させた。当時栄玄の妻は既に歿していたから、これは
河東
(
かとう
)
の
獅子吼
(
ししく
)
を恐れたのではなく、全く主人の性癖のためであった。抽斎は五百に
議
(
はか
)
って苫を貰い受け、後
下総
(
しもうさ
)
の農家に嫁せしめた。
栄玄の子で、父に遅るること
僅
(
わずか
)
に
四月
(
しげつ
)
にして歿した玄亭は、名を
徳瑛
(
とくえい
)
、
字
(
あざな
)
を
魯直
(
ろちょく
)
といった。抽斎の友である。玄亭には二男一女があった。長男は玄庵、次男は養玄である。
女
(
むすめ
)
は名を
初
(
はつ
)
といった。
この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎が
平生
(
へいぜい
)
の学術上
研鑽
(
けんさん
)
の外に最も多く
思
(
おもい
)
を労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した
国勝手
(
くにがって
)
の議だといわなくてはなるまい。この議のまさに及ぼすべき影響の大きさと、この議の打ち
克
(
か
)
たなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識していた所であろう。抽斎はまた自己がその
位
(
くらい
)
にあらずして言うことの不利なるをも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれを
敢
(
あえ
)
てしたのは、必ず内にやむことをえざるものがあって敢てしたのであろう。
憾
(
うら
)
むらくは要路に取ってこれを用いる手腕のある人がなかったために、弘前は遂に東北諸藩の間において一頭地を抜いて
起
(
た
)
つことが出来なかった。また遂に勤王の
旗幟
(
きし
)
を
明
(
あきらか
)
にする時期の早きを致すことが出来なかった。
その五十
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||