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その七十一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その七十一

 抽斎歿後第三年は文久元年である。年の はじめ 五百 いお は大きい本箱三つを 成善 しげよし の部屋に運ばせて、戸棚の中に入れた。そしてこういった。
「これは日本に わずか 三部しかない い版の『十三 経註疏 ぎょうちゅうそ 』だが、お う様がお前のだと おっしゃ った。今年はもう三回忌の来る年だから、今からお前の そば に置くよ」といった。
 数日の後に矢島 優善 やすよし が、 活花 いけばな の友達を集めて会をしたいが、緑町の家には丁度 い座敷がないから、成善の部屋を借りたいといった。成善は部屋を明け渡した。
 さて友達という数人が来て、 汁粉 しるこ などを食って帰った跡で、戸棚の本箱を見ると、その中は空虚であった。
 三月六日に優善は「 身持 みもち 不行跡 不埒 ふらち 」の かど を以て隠居を命ぜられ、同時に「 御憐憫 ごれんびん を以て 名跡 みょうせき 御立被下置 おんたてくだされおく 」ということになって、養子を入れることを許された。
 優善のまさに養うべき子を選ぶことをば、中丸昌庵が引き受けた。然るに中丸の歓心を得ている近習詰百五十石六人扶持の医者に、 上原元永 うえはらげんえい というものがあって、この上原が町医 伊達周禎 だてしゅうてい を推薦した。
 周禎は同じ年の八月四日を以て家督相続をして、矢島氏の禄二百石八人扶持を受けることになった。養父優善は二十七歳、養子周禎は文化十四年 うまれ で四十五歳になっていた。
 周禎の妻を たか といって、 すで に四子を生んでいた。長男 周碩 しゅうせき 、次男周策、三男三蔵、四男玄四郎が即ちこれである。周禎が矢島氏を冒した時、長男周碩は 生得 しょうとく 不調法 ぶちょうほう にして 仕宦 しかん に適せぬと称して廃嫡を請い、 小田原 おだわら に往って町医となった。そこで弘化二年生の次男周策が嗣子に定まった。当時十七歳である。
 これより さき 優善が隠居の 沙汰 さた こうむ った時、これがために最も憂えたものは五百で、最も いきどお ったものは比良野 貞固 さだかた である。貞固は優善を 面責 めんせき して、いかにしてこの はずかしめ すす ぐかと問うた。優善は山田昌栄の塾に って勉学したいと答えた。
 貞固は先ず優善が 改悛 かいしゅん の状を見届けて、 しか のち に入塾せしめるといって、優善と妻 てつ とを自邸に引き取り、二階に すま わせた。
 さて十月になってから、貞固は 五百 いお を招いて、 とも に優善を山田の塾に連れて往った。塾は本郷弓町にあった。
 この塾の月俸は三分二朱であった。貞固のいうには、これは いささか の金ではあるが、矢島氏の禄を受くる周禎が当然支出すべきもので、また優善の修行中その妻鉄をも周禎があずかるが いといった。そしてこの二件を周禎に交渉した。周禎はひどく迷惑らしい答をしたが、後に渋りながらも承諾した。想うに上原は周禎を矢島氏の嗣となすに当って、株の 売渡 うりわたし のような形式を用いたのであろう。上原は渋江氏に対して余り同情を有せぬ人で、優善には かす という 渾名 あだな をさえ附けていたそうである。
 山田の塾には当時門人十九人が寄宿していたが、いまだ いくばく もあらぬに 梅林松弥 うめばやしまつや というものと優善とが塾頭にせられた。梅林は初め抽斎に学び、 のち ここ に来たもので、維新後名を けつ と改め、明治二十一年一月十四日に陸軍一等軍医を以て終った。
 比良野氏ではこの年同藩の 物頭 ものがしら 二百石 稲葉丹下 いなばたんげ の次男 房之助 ふさのすけ を迎えて養子とした。これは貞固が既に五十歳になったのに、妻かなが子を生まぬからであった。房之助は嘉永四年八月二日 うまれ で、当時十一歳になっていて、学問よりは武芸が すき であった。

   その七十二

 矢川氏ではこの年文一郎が二十一歳で、本所二つ目の 鉄物問屋 かなものどいや 平野屋の むすめ りゅう めと った。
 石塚重兵衛の 豊芥子 ほうかいし は、この年十二月十五日に六十三歳で歿した。豊芥子が渋江氏の扶助を仰ぐことは、 ほとん ど恒例の如くになっていた。 五百 いお は石塚氏にわたす金を しる す帳簿を持っていたそうである。しかし抽斎はこの人の 文字 もんじ って、広く市井の事に通じ、また劇の沿革を つまびらか にしているのを愛して、 きた うごとに歓び迎えた。今抽斎に遅るること三年で世を去ったのである。
 人の死を説いて、直ちにその非を挙げんは、 後言 しりうごと めく きらい はあるが、抽斎の蔵書をして 散佚 さんいつ せしめた 顛末 てんまつ を尋ぬるときは、豊芥子もまた幾分の せめ を分たなくてはならない。その持ち去ったのは主に歌舞 音曲 おんぎょく の書、随筆小説の類である。その他書画 骨董 こっとう にも、この人の手から 商估 しょうこ の手にわたったものがある。ここに保さんの記憶している一例を挙げよう。抽斎の遺物に 円山応挙 まるやまおうきょ 百枚があった。題材は の名高い七難七福の図に似たもので、わたくしはその名を保さんに聞いて記憶しているが、少しくこれを筆にすることを はばか る。 そうこう 頗る美にして桐の箱入になっていた。この画と 木彫 もくちょう の人形数箇とを、豊芥子は某会に出陳するといって借りて帰った。人形は六歌仙と 若衆 わかしゅ とで、寛永時代の物だとかいうことであった。これは抽斎が「 三坊 さんぼう には ひな 人形を遣らぬ かわり にこれを遣る」といったのだそうである。三坊とは 成善 しげよし 小字 おさなな 三吉 さんきち である。五百は度々 清助 せいすけ という若党を、浅草 諏訪町 すわちょう の鎌倉屋へ遣って、催促して かえ させようとしたが、豊芥子は こと を左右に託して、遂にこれを還さなかった。清助は もと 京都の 両替店 りょうがえてん 銭屋 ぜにや 息子 むすこ で、 遊蕩 ゆうとう のために親に勘当せられ、江戸に来て渋江氏へ若党に住み込んだ。手跡がなかなか いので、豊芥子の筆耕に やと われることになっていた。それゆえ鎌倉屋への使に立ったのである。
 森 枳園 きえん 小野富穀 おのふこく と口論をしたという話があって、その年月を つまびらか にせぬが、わたくしは多分この年の頃であろうと思う。場所は 山城河岸 やましろがし 津藤 つとう の家であった。例の如く文人、 画師 えし 、力士、俳優、 幇間 ほうかん 芸妓 げいぎ 等の大一座で、酒 たけなわ なる ころ になった。その中に枳園、富穀、矢島 優善 やすよし 、伊沢 徳安 とくあん などが居合せた。初め枳園と富穀とは何事をか論じていたが、万事を茶にして世を渡る枳園が、どうしたわけか大いに いか って、七代目 もどき のたんかを切り、 胖大漢 はんだいかん の富穀をして色を失って席を のが れしめたそうである。富穀もまた 滑稽 こっけい 趣味においては枳園に劣らぬ人物で、 へそ 烟草 タバコ むという 隠芸 かくしげい を有していた。枳園とこの人とがかくまで激烈に衝突しようとは、 たれ も思い けぬので、優善、徳安の二人は永くこの 喧嘩 けんか を忘れずにいた。想うに 貨殖 かしょく に長じた富穀と、人の物と我物との別に重きを置かぬ、 無頓着 むとんじゃく な枳園とは、その性格に 相容 あいい れざる所があったであろう。 津藤 つとう 即ち 摂津国屋 つのくにや 藤次郎 とうじろう は、名は りん 、字は 冷和 れいわ 香以 こうい 鯉角 りかく 梅阿弥 ばいあみ 等と号した。その豪遊を ほしいまま にして家産を 蕩尽 とうじん したのは、世の知る所である。文政五年 うまれ で、当時四十歳である。
 この年の抽斎が 忌日 きにち の頃であった。小島成斎は五百に勧めて、なお存している蔵書の大半を、 中橋埋地 なかばしうめち の柏軒が家にあずけた。柏軒は翌年お玉が池に 第宅 ていたく を移す時も、家財と共にこれを新居に はこ び入れて、一年間位 鄭重 ていちょう 保護 ほうご していた。