その百
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その百
抽斎歿後の第二十年は明治十一年である。
一月
(
いちげつ
)
二十五日津軽
承昭
(
つぐてる
)
は藩士の伝記を
編輯
(
へんしゅう
)
せしめんがために、
下沢保躬
(
しもさわやすみ
)
をして渋江氏について抽斎の行状を
徴
(
め
)
さしめた。保は直ちに録呈した。いわゆる伝記は今存ずる所の『津軽藩旧記伝類』ではあるまいか。わたくしはいまだその書を見ざるが故に、抽斎の行状が
采択
(
さいたく
)
せられしや否やを
審
(
つまびらか
)
にしない。
保の奉職している浜松変則中学枚はこの年二月二十三日に中学校と改称せられた。
山田脩はこの年九月二日に、母五百に招致せられて浜松に来た。これより先五百は脩の
喘息
(
ぜんそく
)
を
気遣
(
きづか
)
っていたが、脩が矢島
優
(
ゆたか
)
と共に『
魁
(
さきがけ
)
新聞』の記者となるに及んで、その保に寄する書に
卯飲
(
ぼういん
)
の語あるを見て、大いにその健康を害せんを
惧
(
おそ
)
れ、急に命じて浜松に
来
(
きた
)
らしめた。しかし五百は独り脩の
身体
(
しんたい
)
のためにのみ憂えたのではない。その新聞記者の悪徳に化せられんことをも
慮
(
おもんばか
)
ったのである。
この年四月に岡本況斎が八十二歳で歿した。
抽斎歿後の第二十一年は明治十二年である。十月十五日保は学問修行のため職を辞し、二十八日に
聴許
(
ていきょ
)
せられた。これは慶応義塾に
入
(
い
)
って英語を学ばんがためである。
これより先保は深く英語を窮めんと欲して、いまだその志を遂げずにいた。師範学校に入ったのも、その業を
卒
(
お
)
えて教員となったのも、皆学資給せざるがために、やむことをえずして
為
(
な
)
したのである。既にして保は慶応義塾の学風を
仄聞
(
そくぶん
)
し、
頗
(
すこぶ
)
る
福沢諭吉
(
ふくざわゆきち
)
に傾倒した。明治九年に国学者
阿波
(
あわ
)
の人某が、福沢の
著
(
あらわ
)
す所の『学問のすゝめ』を
駁
(
はく
)
して、書中の「
日本
(
にっぽん
)
は
爾
(
さいじ
)
たる小国である」の句を以て祖国を
辱
(
はずかし
)
むるものとなすを見るに及んで、福沢に代って一文を草し、『民間雑誌』に投じた。『民間雑誌』は福沢の経営する所の日刊新聞で、今の『時事新報』の前身である。福沢は保の文を采録し、
手書
(
しゅしょ
)
して保に謝した。保はこれより福沢に
識
(
し
)
られて、これに
適従
(
てきじゅう
)
せんと欲する念がいよいよ切になったのである。
保は職を辞する前に、山田脩をして居宅を
索
(
もと
)
めしめた。脩は九月二十八日に先ず浜松を発して東京に至り、芝区
松本町
(
まつもとちょう
)
十二番地の家を借りて、母と弟とを迎えた。
五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月三日に松本町の家に
著
(
つ
)
いた。この時保と脩とは再び東京にあって母の
膝下
(
しっか
)
に侍することを得たが、独り矢島
優
(
ゆたか
)
のみは母の到著するを待つことが出来ずに北海道へ旅立った。十月八日に開拓使御用
掛
(
がかり
)
を拝命して、札幌に在勤することとなったからである。
陸
(
くが
)
は母と保との浜松へ往った
後
(
のち
)
も、亀沢町の家で長唄の師匠をしていた。この家には兵庫屋から帰った
水木
(
みき
)
が同居していた。勝久は水木の夫であった
畑中藤次郎
(
はたなかとうじろう
)
を頼もしくないと見定めて、まだ脩が浜松に往かぬ先に相談して、水木を手元へ連れ戻したのである。
保らは浜松から東京に来た時、二人の同行者があった。一人は山田要蔵、一人は
中西常武
(
なかにしつねたけ
)
である。
山田は
遠江国
(
とおとうみのくに
)
敷智郡
(
ふちごおり
)
都築
(
つづき
)
の人である。父を喜平といって、
畳問屋
(
たたみどいや
)
である。その三男要蔵は
元治
(
げんじ
)
元年
生
(
うまれ
)
の青年で、渋江の家から浜松中学校に通い、卒業して東京に来たのである。時に年十六であった。中西は伊勢国
度会郡
(
わたらいごおり
)
山田
岩淵町
(
いわぶちちょう
)
の人中西
用亮
(
ようすけ
)
の弟である。愛知師範学校に学んで卒業し、浜松中学校の教員になっていた。これは職を
罷
(
や
)
めて東京に来た時二十七、八歳であった。山田も中西も、保と同じく慶応義塾に
入
(
い
)
らんと欲して、共に入京したのである。
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渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||