その百十一
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その百十一
わたくしは
此
(
ここ
)
に前記を
続
(
つ
)
いで抽斎歿後第四十一年以下の事を挙げる。明治三十三年には五月二日に保の三女
乙女
(
おとめ
)
さんが生れた。三十四年には脩が
吟月
(
ぎんげつ
)
と号した。
俳諧
(
はいかい
)
の師二世
桂
(
かつら
)
の
本
(
もと
)
琴糸女
(
きんしじょ
)
の授くる所の号である。山内
水木
(
みき
)
が一月二十六日に歿した。年四十九であった。福沢諭吉が二月三日に六十八歳で歿した。博文館主
大橋佐平
(
おおはしさへい
)
が十一月三日に六十七歳で歿した。三十五年には脩が十月に秀英舎を退いて京橋
宗十郎町
(
そうじゅうろうちょう
)
の国文社に
入
(
い
)
り、校正係になった。修の四男
末男
(
すえお
)
さんが十二月五日に生れた。三十六年には脩が九月に静岡に往って、
安西
(
あんざい
)
一丁目
南裏
(
みなみうら
)
に渋江塾を再興した。県立静岡中学校長
川田正澂
(
かわだせいちょう
)
の
勧
(
すすめ
)
に従って、中学生のために温習の便宜を
謀
(
はか
)
ったのである。脩の長女花が三月十五日に六歳で歿した。三十七年には保が五月十五日に神田
三崎町
(
みさきちょう
)
一番地に移った。三十八年には保が七月十三日に
荏原郡
(
えばらごおり
)
品川町
(
しながわちょう
)
南品川百五十九番地に移った。脩が十二月に静岡の渋江塾を閉じた。川田が宮城県第一中学校長に転じて、静岡中学校の規則が変更せられ、渋江塾は
存立
(
ぞんりつ
)
の必要なきに至ったのである。伊沢柏軒の嗣子
磐
(
いわお
)
が十一月二十四日に歿した。鉄三郎が
徳安
(
とくあん
)
と改め、維新後にまた磐と改めたのである。磐の嗣子
信治
(
しんじ
)
さんは今
赤坂
(
あかさか
)
氷川町
(
ひかわちょう
)
の姉壻
清水夏雲
(
しみずかうん
)
さんの
許
(
もと
)
にいる。三十九年には脩が入京して
小石川
(
こいしかわ
)
久堅町
(
ひさかたちょう
)
博文館印刷所の校正係になった。根本羽嶽が十月三日に八十五歳で歿した。四十年には保の四女
紅葉
(
もみじ
)
が十月二十二日に生れて、二十八日に夭した。これが抽斎歿後の第四十八年に至るまでの事略である。
抽斎歿後の第四十九年は明治四十一年である。四月十二日午後十時に脩が歿した。脩はこの月四日降雪の日に感冒した。しかし五日までは博文館印刷所の業を廃せなかった。六日に至って
咳嗽
(
がいそう
)
甚しく、発熱して
就蓐
(
じゅじょく
)
し、
終
(
つい
)
に
加答児
(
カタル
)
性肺炎のために命を
隕
(
おと
)
した。嗣子終吉さんは今の
下渋谷
(
しもしぶや
)
の家に移った。
わたくしは脩の句稿を左に
鈔出
(
しょうしゅつ
)
する。類句を避けて精選するが如きは、その道に
専
(
もっぱら
)
ならざるわたくしの
能
(
よ
)
くする所ではない。読者の
指
(
してき
)
を得ば
幸
(
さいわい
)
であろう。
その百十一
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||