その五十二
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その五十二
庭
(
さいてい
)
、名は
元堅
(
げんけん
)
、
字
(
あざな
)
は
亦柔
(
えきじゅう
)
、一に
三松
(
さんしょう
)
と号す。通称は
安叔
(
あんしゅく
)
、
後
(
のち
)
楽真院また楽春院という。寛政七年に
桂山
(
けいざん
)
の次男に生れた。幼時犬を
闘
(
たたか
)
わしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄に
若
(
し
)
かずというを以て責めると、「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。
幾
(
いくばく
)
もなくして節を折って書を読み、精力
衆
(
しゅう
)
に
踰
(
こ
)
え、識見
人
(
ひと
)
を驚かした。分家した
初
(
はじめ
)
は
本石町
(
ほんこくちょう
)
に住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。
秩禄
(
ちつろく
)
は
宗家
(
そうか
)
と同じく二百俵三十人扶持である。
庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に
薬餌
(
やくじ
)
を給するのみでなく、夏は
蚊
(
かや
)
を
貽
(
おく
)
り、冬は
布団
(
ふとん
)
を
遣
(
おく
)
った。また三両から五両までの金を、
貧窶
(
ひんる
)
の度に従って与えたこともある。
庭は抽斎の最も親しい友の
一人
(
ひとり
)
で、
二家
(
にか
)
の往来は
頻繁
(
ひんぱん
)
であった。しかし当時法印の位は
太
(
はなは
)
だ
貴
(
とうと
)
いもので、庭が渋江の家に来ると、茶は台のあり
蓋
(
ふた
)
のある茶碗に
注
(
つ
)
ぎ、菓子は
高坏
(
たかつき
)
に盛って出した。この
器
(
うつわ
)
は大名と多紀法印とに
茶菓
(
ちゃか
)
を呈する時に限って用いたそうである。庭の
後
(
のち
)
は
安琢
(
あんたく
)
が
嗣
(
つ
)
いだ。
暁湖、名は元、字は
兆寿
(
ちょうじゅ
)
、通称は
安良
(
あんりょう
)
であった。桂山の孫、
柳
(
りゅうはん
)
の子である。文化三年に生れ、文政十年六月三日に父を
喪
(
うしな
)
って、八月四日に宗家を継承した。暁湖の
後
(
のち
)
を
襲
(
つ
)
いだのは養子
元佶
(
げんきつ
)
で、実は
季
(
すえ
)
の弟である。
安政五年には二月二十八日に、抽斎の七男
成善
(
しげよし
)
が藩主津軽
順承
(
ゆきつぐ
)
に謁した。年
甫
(
はじめ
)
て二歳、今の
齢
(
よわい
)
を算する法に従えば、生れて七カ月であるから、人に
懐
(
いだ
)
かれて謁した。しかし謁見は八歳以上と定められていたので、この日だけは八歳と披露したのだそうである。
五月十七日には七女
幸
(
さき
)
が生れた。幸は越えて七月六日に早世した。
この年には七月から九月に至るまで
虎列拉
(
コレラ
)
が流行した。徳川家定は八月二日に、「少々
御勝不被遊
(
おんすぐれあそばされず
)
」ということであったが、八日には
忽
(
たちま
)
ち
薨去
(
こうきょ
)
の公報が発せられ、
家斉
(
いえなり
)
の孫紀伊宰相
慶福
(
よしとみ
)
が十三歳で
嗣立
(
しりつ
)
した。家定の病は虎列拉であったそうである。
この頃抽斎は
五百
(
いお
)
にこういう話をした。「
己
(
おれ
)
は公儀へ召されることになるそうだ。それが近い事で
公方様
(
くぼうさま
)
の喪が済み次第
仰付
(
おおせつ
)
けられるだろうということだ。しかしそれをお
請
(
うけ
)
をするには、どうしても津軽家の方を辞せんではいられない。己は元禄以来重恩の
主家
(
しゅうけ
)
を
棄
(
す
)
てて栄達を
謀
(
はか
)
る気にはなられぬから、公儀の方を辞するつもりだ。それには病気を申立てる。そうすると、津軽家の方で勤めていることも出来ない。己は隠居することに
極
(
き
)
めた。父は五十九歳で隠居して七十四歳で亡くなったから、己も
兼
(
かね
)
て五十九歳になったら隠居しようと思っていた。それがただ少しばかり早くなったのだ。もし父と同じように、七十四歳まで生きていられるものとすると、これから先まだ二十年ほどの月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をする。先ず『
老子
(
ろうし
)
』の註を
始
(
はじめ
)
として、迷庵
斎
(
えきさい
)
に誓った
為事
(
しごと
)
を果して、それから自分の為事に掛かるのだ」といった。公儀へ召されるといったのは、奥医師などに召し出されることで、抽斎はその内命を受けていたのであろう。然るに運命は抽斎をしてこのヂレンマの前に立たしむるに至らなかった。また抽斎をして力を述作に
肆
(
ほしいまま
)
にせしむるに至らなかった。
その五十二
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