その六十七
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その六十七
抽斎の歿した翌年安政六年には、十一月二十八日に矢島
優善
(
やすよし
)
が浜町中屋敷詰の
奥通
(
おくどおり
)
にせられた。表医者の名を以て
信順
(
のぶゆき
)
の
側
(
かたわら
)
に侍することになったのである。今なお信頼しがたい優善が、責任ある職に
就
(
つ
)
いたのは、五百のために心労を増す種であった。
抽斎の姉
須磨
(
すま
)
の生んだ長女
延
(
のぶ
)
の亡くなったのは、多分この年の事であっただろう。
允成
(
ただしげ
)
の実父稲垣清蔵の養子が
大矢清兵衛
(
おおやせいべえ
)
で、清兵衛の子が
飯田良清
(
いいだよしきよ
)
で、良清の
女
(
むすめ
)
がこの延である。
容貌
(
ようぼう
)
の美しい女で、
小舟町
(
こぶねちょう
)
の
鰹節問屋
(
かつおぶしどいや
)
新井屋半七
(
あらいやはんしち
)
というものに嫁していた。良清の長男
直之助
(
なおのすけ
)
は早世して、跡には養子
孫三郎
(
まござぶろう
)
と、延の妹
路
(
みち
)
とが残った。孫三郎の事は後に見えている。
抽斎歿後の第二年は
万延
(
まんえん
)
元年である。
成善
(
しげよし
)
はまだ四歳であったが、
夙
(
はや
)
くも浜町中屋敷の津軽
信順
(
のぶゆき
)
に近習として仕えることになった。
勿論
(
もちろん
)
時々機嫌を伺いに出るに
止
(
とど
)
まっていたであろう。この時新に中小姓になって中屋敷に勤める
矢川文一郎
(
やがわぶんいちろう
)
というものがあって、
穉
(
おさな
)
い成善の世話をしてくれた。
矢川には
本末
(
ほんばつ
)
両家がある。本家は
長足流
(
ちょうそくりゅう
)
の馬術を伝えていて、
世文内
(
よよぶんない
)
と称した。先代文内の嫡男
与四郎
(
よしろう
)
は、当時
順承
(
ゆきつぐ
)
の側用人になって、父の称を
襲
(
つ
)
いでいた。妻
児玉
(
こだま
)
氏は越前国
敦賀
(
つるが
)
の城主
酒井
(
さかい
)
右京亮
(
うきょうのすけ
)
忠
(
ただやす
)
の家来某の
女
(
むすめ
)
であった。二百石八人扶持の家である。与四郎の文内に弟があり、妹があって、彼を
宗兵衛
(
そうべえ
)
といい、
此
(
これ
)
を
岡野
(
おかの
)
といった。宗兵衛は分家して、近習小姓倉田
小十郎
(
こじゅうろう
)
の
女
(
むすめ
)
みつを
娶
(
めと
)
った。岡野は順承附の
中臈
(
ちゅうろう
)
になった。実は
妾
(
しょう
)
である。
文一郎はこの宗兵衛の長子である。その母の姉妹には
林有的
(
はやしゆうてき
)
の妻、
佐竹永海
(
さたけえいかい
)
の妻などがある。佐竹は初め山内氏五百を娶らんとして成らず、遂に矢川氏を
納
(
い
)
れた。
某
(
それ
)
の年の元日に佐竹は山内へ廻礼に来て、庭に立っていた五百の手を
※
(
と
)
文一郎の父は早く世を去って、母みつは再嫁した。そこで文一郎は津軽家に縁故のある浅草 常福寺 ( じょうふくじ ) にあずけられた。これは嘉永四年の事で、天保十二年 生 ( うまれ ) の文一郎は十一歳になっていた。
文一郎は寺で人と成って、渋江家で抽斎の亡くなった頃、本家の文内の 許 ( もと ) に引き取られた。そして成善が近習小姓を仰付けられる少し前に、二十歳で信順の中小姓になったのである。
文一郎は 頗 ( すこぶ ) る 姿貌 ( しぼう ) があって、心 自 ( みずか ) らこれを 恃 ( たの ) んでいた。当時 吉原 ( よしわら ) の 狎妓 ( こうぎ ) の許に 足繁 ( あししげ ) く通って、遂に夫婦の 誓 ( ちかい ) をした。或夜文一郎はふと 醒 ( さ ) めて、 傍 ( かたわら ) に 臥 ( ふ ) している女を見ると、 一眼 ( いちがん ) を大きく 開 ( みひら ) いて眠っている。常に美しいとばかり思っていた面貌の異様に変じたのに驚いて、 肌 ( はだ ) に 粟 ( あわ ) を生じたが、 忽 ( たちまち ) また 魘夢 ( えんむ ) に 脅 ( おびやか ) されているのではないかと疑って、急に身を起した。女が醒めてどうしたのかと問うた。文一郎が答はいまだ 半 ( なかば ) ならざるに、女は 満臉 ( まんけん ) に 紅 ( こう ) を 潮 ( ちょう ) して、 偏盲 ( へんもう ) のために義眼を装っていることを告げた。そして涙を流しつつ、旧盟を破らずにいてくれと頼んだ。文一郎は陽にこれを諾して帰って、それきりこの女と絶ったそうである。
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