その九十九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その九十九
保は母五百を奉じて浜松に
著
(
つ
)
いて、初め
暫
(
しばら
)
くのほどは旅店にいた。次で母子の下宿料月額六円を払って、
下垂町
(
しもたれちょう
)
の
郷宿
(
ごうやど
)
山田屋
和三郎
(
わさぶろう
)
方にいることになった。郷宿とは藩政時代に訴訟などのために村民が城下に出た時
舎
(
やど
)
る家をいうのである。また諸国を遊歴する書画家等の滞留するものも、大抵この郷宿にいた。山田屋は大きい家で、庭に
肉桂
(
にっけい
)
の大木がある。今もなお
儼存
(
げんそん
)
しているそうである。
山田屋の向いに
山喜
(
やまき
)
という居酒屋がある。保は山田屋に移った
初
(
はじめ
)
に、山喜の店に
大皿
(
おおざら
)
に
蒲焼
(
かばやき
)
の盛ってあるのを見て五百に「あれを買って見ましょうか」といった。
「
贅沢
(
ぜいたく
)
をお言いでない。
鰻
(
うなぎ
)
はこの土地でも高かろう」といって、五百は止めようとした。
「まあ、聞いて見ましょう」といって、保は出て行った。
価
(
あたい
)
を問えば、一銭に
五串
(
いつくし
)
であった。当時浜松辺で暮しの立ちやすかったことは、これに
由
(
よ
)
って想見することが出来る。
保は初め文部省の辞令を持って県庁に往った。浜松県の官吏は過半旧幕人で、薩長政府の文部省に対する反感があって、学務課長
大江孝文
(
おおえたかぶみ
)
の如きも、
頗
(
すこぶ
)
る保を冷遇した。しかし
良
(
やや
)
久しく話しているうちに、保が津軽人だと聞いて、少しく
面
(
おもて
)
を
和
(
やわら
)
げた。大江の母は津軽家の用人
栂野求馬
(
とがのもとめ
)
の妹であった。
後
(
のち
)
大江は県令
林厚徳
(
はやしこうとく
)
に
稟
(
もう
)
して、師範学校を設けることにして、保を教頭に任用した。学校の落成したのは六月である。
数月の後、保は
高町
(
たかまち
)
の坂下、紺屋町西端の雑貨商
江州屋
(
ごうしゅうや
)
速見平吉
(
はやみへいきち
)
の
離座敷
(
はなれざしき
)
を借りて
遷
(
うつ
)
った。この江州屋も今なお存しているそうである。
矢島優はこの年十月十八日に工部
少属
(
しょうさかん
)
を
罷
(
や
)
めて、新聞記者になり、『
魁
(
さきがけ
)
新聞』、『
真砂
(
まさご
)
新聞』等のために、主として演劇欄に筆を執った。『魁新聞』には山田脩が
倶
(
とも
)
に入社し、『真砂新聞』には森
枳園
(
きえん
)
が共に加盟した。枳園は文部省の官吏として、医学校、工学寮等に通勤しつつ、
旁
(
かたわ
)
ら新聞社に寄稿したのである。
抽斎歿後の第十八年は明治九年である。十月十日に浜松師範学校が静岡師範学校浜松支部と改称せられた。これより先八月二十一日に浜松県を廃して静岡県に
併
(
あわ
)
せられたのである。しかし保の職は
故
(
もと
)
の如くであった。
この年四月に保は五百の還暦の
賀延
(
がえん
)
を催して県令以下の
祝
(
いわい
)
を受けた。
五百の姉長尾氏
安
(
やす
)
はこの年
新富座附
(
しんとみざつき
)
の茶屋
三河屋
(
みかわや
)
で歿した。年は六十二であった。この茶屋の株は
後
(
のち
)
敬の夫
力蔵
(
りきぞう
)
が死ぬるに及んで、他人の手に渡った。
比良野貞固もまたこの年本所緑町の家で歿した。文化九年
生
(
うまれ
)
であるから、六十五歳を以て終ったのである。その
後
(
のち
)
を
襲
(
つ
)
いだ房之助さんは現に緑町一丁目に住んでいる。
小野
富穀
(
ふこく
)
もまたこの年七月十七日に歿した。年は七十であった。子
道悦
(
どうえつ
)
が家督相続をした。
多紀
安琢
(
あんたく
)
もまたこの年一月四日に五十三歳で歿した。名は
元
(
げんえん
)
、号は
雲従
(
うんじゅう
)
であった。その後を襲いだのが
上総国
(
かずさのくに
)
夷隅郡
(
いすみごおり
)
総元村
(
そうもとむら
)
に現存している次男
晴之助
(
せいのすけ
)
さんである。
喜多村
栲窓
(
こうそう
)
もまたこの年十一月九日に歿した。栲窓は抽斎の歿した頃奥医師を罷めて
大塚村
(
おおつかむら
)
に住んでいたが、明治七年十二月に卒中し、
右半身
(
ゆうはんしん
)
不随になり、
此
(
ここ
)
に
(
いた
)
って終った。享年七十三である。
抽斎歿後の第十九年は明治十年である。保は浜松
表早馬町
(
おもてはやうまちょう
)
四十番地に一戸を構え、後また
幾
(
いくばく
)
ならずして
元城内
(
もとじょうない
)
五十七番地に移った。浜松城は
本
(
もと
)
井上
(
いのうえ
)
河内守
(
かわちのかみ
)
正直
(
まさなお
)
の城である。明治元年に徳川家が
新
(
あらた
)
にこの地に
封
(
ほう
)
ぜられたので、正直は翌年上総国
市原郡
(
いちはらごおり
)
鶴舞
(
つるまい
)
に
徙
(
うつ
)
った。城内の家屋は皆井上家時代の重臣の
第宅
(
ていたく
)
で、大手の左右に
列
(
つらな
)
っていた。保はその一つに母をおらせることが出来たのである。
この年七月四日に保の奉職している静岡師範学校浜松支部は変則中学校と改称せられた。
兼松石居
(
かねまつせききょ
)
はこの年十二月十二日に歿した。年六十八である。絶筆の五絶と和歌とがある。「
今日吾知免
(
こんにちわれめんをしる
)
。
亦将騎鶴遊
(
またつるにのりてあそばんとす
)
。
上帝賚殊命
(
じょうていしゅめいをたまう
)
。
使爾永相休
(
なんじをしてながくあいやすましめんと
)
。」「
年浪
(
としなみ
)
のたち騒ぎつる世をうみの岸を離れて舟
漕
(
こ
)
ぎ
出
(
い
)
でむ。」石居は
酒井
(
さかい
)
石見守
(
いわみのかみ
)
忠方
(
ただみち
)
の家来
屋代
(
やしろ
)
某の
女
(
じょ
)
を
娶
(
めと
)
って、三子二女を生ませた。長子
艮
(
こん
)
、
字
(
あざな
)
は
止所
(
ししょ
)
が家を嗣いだ。号は
厚朴軒
(
こうぼくけん
)
である。艮の子
成器
(
せいき
)
は陸軍砲兵大尉である。成器さんは下総国
市川町
(
いちかわまち
)
に住んでいて、厚朴軒さんもその家にいる。
その九十九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||